ある日の日暮れどき、サウスベイ地区のわが家に近い裏道をドライブしていたときのことだ。
 とある信号機の無い交差点にさしかかった時、私が運転する車のすぐ前を横断しようとして立ち止まっている、かなりの年配の女性が一人、目に入った。
 歩行者は優先であり、しかも横断歩道のある交差点だ。私は当然交差点の手前で一時停車し、このご婦人が前を横断するのを待った。
 目の前で自分のために止まってくれた車を確認したこのご婦人はというと、顔をあげ、こちらに向かってにっこりと笑顔を見せ、私に向かってなんと『投げキッス』をするではないか。瞬間、どぎもを抜かれた思いだったが、この微笑ましい情景に運転席の私はすぐ緊張がほぐれ、素直に笑いが出た。
 あちらさんはどうみてもかなりお年をめしたご婦人だ。でもそのしぐさには、なんともいえぬ気品とユーモアが感じられた。これが仮に若い女性からこんなことをされたら、ちょっと生々しく、その人の品位をも疑わしくなるだろう。私だって緊張して素直に笑えなかったかもしれない。
 『投げキッス』なんて若者たちのものかと思ったら、こんな楽しい使い方があったと、はじめて知った。こういうことも相手次第で微笑ましいものだ。楽しいお年寄りの発想に思わず乾杯だ。
 価値観の多様な米国において、ユーモアセンスは人格の高さを表す重要な要因の一つといわれている。会話やスピーチの中でも、いかにセンスに富んだユーモアを発揮するか競い合っている光景をよく見かける。
 個人主義、合理主義などといった言葉がすぐ浮かんでくる米国では、本来は脇道であり、対人関係の潤滑油に過ぎないユーモアセンスだが、実は多数の中で個人の存在を認めさせ、他人と差をつけるという意味では、まさに重要な意味を持つものといえそうだ。
 今回の場合、私のほうからも『投げキッス』の返礼をするのが、ユーモア社会でのエチケットだったのではなかったろうか。ところが私にはとうとう、それが出来なかった。照れ、恥ずかしさ、ユーモアセンス不足、なんとも未熟者の私と反省した次第だ。【河合将介】

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