年の暮れになると、かつて在ロサンゼルス総領事だった児玉和夫・国連次席大使から長文のEメールが届く。
12月26日付けのメールで「政権交代を二度連続もたらした有権者の判断」を評価した児玉さん。その一方で、選挙後、「振り子の揺れ」を助長させた小選挙区制度を批判したメディアには「論理の一貫性がない」と異議を唱える。
確かにメディアの論調には、「得票と議席の差が開きすぎる選挙制度は根本から見直すべきだ」(読売新聞社説)といったものが多かった。「3年半前に民主党が大勝した時にはそうした見直し論はなかったではないか」と児玉さんはご立腹だ。
もう一つ、児玉さんは、野田前首相が断行した「税制・社会保障一体改革法案」に触れている。先送りされてきた懸案を解決したのは、前首相だった。見方によっては、野田さんはこの法案を枕に討ち死にしたと言ってもいい。ところが、それまであれほど「決断しない政治」を批判してきたメディアは、この野田さんの勇断をそれほど評価していない。〈なぜなんだ〉と児玉さんは問いかけている。
普通、官僚は国内政治についてあまり口外しない。やむにやまれずの心境なのだろう。サイバースペース時代、日本のメディアはどこに住んでいようとも閲覧出来る。「岡目八目」。メディアの長所も短所も在外邦人の方がよく見えるものだ。
メディアは国民性を反映する鏡のようなもの。日本のメディアの「一貫性のなさ」が罷り通るのは、日本人の国民性からくるものなのか、日本のメディア自体の体質なのか。これまでにも〈日本人はもっと政治に対する当事者意識を持て〉と訴えてきた児玉さん。
12年のメールでは、とくに日本再生のために国民一人ひとりが『痛み(負担)を受け入れる覚悟』をせよ、と訴え、「日本再生の歩みは、足もとから民主主義を鍛え直し、実践するところからしか得られない」と言い切っている。
児玉さんのメールを読んでいて、ふと朝河貫一のことを思い出した。日本人初のエール大学教授だ。二人に共通しているのは、齢を重ねるほどに研ぎ澄まされていくフェアネス(公平性)感覚だ。【高濱 賛】