広島市内に昨秋、広島平和記念資料館の付属展示施設としてシュモーハウスが誕生した。シュモーハウスは、原爆投下で壊滅状態となった広島に戦後差し伸べられた海外からの支援の資料を展示している。
 2001年に105歳で死去したフロイド・シュモーさんは、森林学を学んだのをきっかけに生涯の大半をシアトル地域で送った。キリスト教フレンド派(クエーカー)の平和主義者で、行動の人だった。
 シュモーさんは1948年、食糧事情の厳しかった日本へ数百頭のヤギを届けて惨状を目のあたりにし、翌年、原爆投下で住まいを失った人のための「広島の家」プロジェクトを開始した。
 寄付を集めグループを率いて夏には広島を訪れ、日本人ボランティアと協力し5年間に21軒を建設。60年を経て唯一残る建物「シュモー会館」の歴史に興味を抱いた市民グループの働きかけもあり、広島市はこのほど、被ばくからの復興を後世に伝える建物として集会所を補修・移転・改装。シュモーハウスとしたものだ。
 展示では、「広島の家」のほか、被ばく直後の広島に大量の医薬品を届けたスイス人医師マルセル・ジュノーさんや、肉親を失った子供たちへの支援を続けたノーマン・カズンズさんらをはじめとする、海外の個人・団体から寄せられた支援が紹介されている。
 平和主義者としてのシュモーさんの活動は広島に限らず、90年代には、シアトル・ピース・パークの設立と同公園にサダコ像を建てることに力を注いだ。私がお会いした時、シュモーさんは既に90代半ばだったが、思いを熱く語る姿は印象的だった。
 シュモーハウスについてホリデーカードで知らせて下さったシュモー山崎富子さんは、「広島の家」プロジェクトの当時を知る数少ない一人だ。女子大生だった1949年の夏から、東京のキリスト教会の若者たち数名とボランティア参加して家の建設に従事。そんな縁から後に、妻を亡くしたシュモーさんの伴侶になられたと聞く。「広島の家」は日米のいろんな出会いをもたらした。日本にいる間に私も一度、シュモーハウスを訪れたいと思っている。【楠瀬明子】

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