「あきらめる」は、諦めるを連想する。それも大切だとしながら、五木寛之氏は、「明らかに究める」どうしようもない現実を、正面から目をそらさずに見よう、という立場だ、と著書に記している。
前回のこの欄に「ゆっくりのすすめ」を書いたら、高齢の方に「私にぴったりのことを書いてましたね。お若いのにどうして?」と尋ねられた。実感を書いたものだったが、還暦は若造にしかみられないらしい。しかし当の本人は、確実に六十一の老いの現実に直面している。
まず目が見えない、盲目ではないが、今これを見たいという時に、それが見えない。あちこち痛みもある。気をつけることがたくさんあるし、不便を感じることが多々あるが、若い頃に戻りたいとか、老いることが悪だとかは思わない。
先日、若い人との会話の中で「論語」で30にしては何でしたっけ? 惑わずは? という話になった。30にして立つ、40にして惑わず、50にして天命を知る、60にして耳従う。思い出すきっかけをもらって思った。寿命が延びたからこそ、50で天命をわきまえてその先を考える、60にして人の言葉を素直に受け入れ、70には思うままにふるまって、それでも道を外れない、この言葉が教える重大さ、道理を明らめた言葉の意味は深いと思った。高齢者といわれる世代は、見掛けも感覚も若くなっている。だから、いつまでも元気でいられる錯覚を起こす。
しかし、間近に迫る超高齢社会、全ての人が元気で明るく、は生きられないと思う。私が感じている不便を、同じように感じている人もいると思う。老いという未知の世界はそういうものだと思っている。それを口にすることが憚(はばか)られる空気がある現実の中で、無理をすることもあろう。逆にこんなにぴんぴんしているのに、わざわざ暗い未来にするなという人もいよう。しかし、何の努力をしなくてもできたことが、できなくなる現実があることは否定できない。
そこで老いの自立を考え、工夫を凝らしてみる。真っ先に人に頼ることを考えない。養生だけは怠らない。時に諦めもあるが、老いに抗わず、希望を見出すことを考えたいと思う。【大石克子】