「こんなことは、県人会がすることですよね」と、知人が言った。身寄りのいない、お年寄りのお世話をすることになった経過を話しているときのことだ。「彼女も県人会に入ってました。でも、県人会の人は関わっていなかったんですね。昔は県人会で助け合っていたんですよね。お寺の方が手伝ってくれたのはよかった。」と続けた。ちょうど、県人会新年会の季節だった。
常に高齢者と交わっている者としては、少々考えさせられる。二世、三世と世代を継いでいる家族はいいとして、単身のまま老いた人、配偶者に先立たれて独りになったなど、異国で全く身寄りがないまま老いる大変さを見せられていると、何らかの助けあい組織があれば、と思ったりする。
高齢者昼食会の食事を配達するボランティアをしていると、伝書鳩ならぬ、お知らせ宅配便と思うときがある。「○○さんはどうしてる?」「△△さんに何度も電話してるけど、出ないのよ。どうしてるか知ってる?」「行かれないから、これをあの人に届けてほしいんだけど」等々。ずっと付き合いのあった人の安否を知りたい、気持ちを伝えたい、でも自分で確かめる手段がない。プライバシーなどで、情報が得られない。しかも、齢を重ねるごとに、行動範囲が狭くなり、友人知人は病気で倒れたり、亡くなったり。寂しい思いや不便を感じている。この高度に発達した便利な社会にあっても、満たされないことがある。体温を感じる、確かなつながりを求めているように思う。
若いときは、他人に気にされたり、かまわれるのが煩わしいとか、コミュニティーに関わりたくない、群れたくない、と思っている人も多い。しかし、誰も一人では生きられない。どんなかたちでも人とつながっている。助けられ、生かされている。
つながるでも、ネットでつながっている半世紀後の高齢者が求めるものは? と思ったとき、ちょっと寂しさがよぎる。生身で直に触れ合えるだろうか、何か媒体を介在させるのだろうか。ネットに書かれる内容と事実は違うことがある。確かなつながりを、最終的に求めるのではないかと思うのは楽観か。【大石克子】