夫が早朝に発作を起こして病院に運ばれ1時間もしないうちにあっけなく他界した日、病院から帰る車の中でふと気が付けばそれはハロウィーンの日だった。
 母の命日はクリスマスイブ、叔父はクリスマスの日、感謝祭の日に逝った親友もいる。
 人間は生まれてくる日も死ぬ日も、自殺でもしない限り自分では選べないわけで、祝祭日や特別な日に家族や近しい人が亡くなると、毎年その日が来るたびに祝日やその行事と共に嫌でも故人に関する思い出がよみがえってくる。長い年月が流れても、その時々の祝い事をしながら、心のどこかにくすんだ悲しみのようなものがポツンと残っている。だから嫌だというわけではなく、別に命日でなくても故人のことを思い出したり、誰かと話し合ったりすることは、良いことだと思える話に出会った。
 友人が先日、日本のテレビか何かで、人間は2度死ぬのだということを聞いたと言って話してくれたことだが、まず肉体が生きることをやめた時に人は1度死に、次に周りのすべての人が死んだ人のことを忘れ去った時、もう1度死ぬというのである。
 その言葉をなるほどと思った。だから残された遺族は命日が来るたびに供養をして、故人への思いをつないでゆくのだろう。
 逝った人々の思い出がいつも愛情深い良いものだとは限らない。
 あいつは私をだまし、お陰で私は商売で大損をしたとか、とにかくだらしのない男だったけど憎めない奴だった、きれいな人だったけど話し掛けにくかった、いつも人の悪口を言うのが好きだった、働き者だったがケチだった、など。
 良いことも悪いことも、故人のそんな思い出が過去形で語られる時、憎しみや否定的な表現さえ少し薄いベールを掛けられて、ユーモアさえ加えて、すべて許されたように聞こえるから不思議である。
 2度目の命を生きている故人(?)にしても、特に悪口を言われている人は、それで少しは居心地が良かろうというものだ。
 手を伸ばせば80になろうという自分の年齢に今更ながら驚いている。夫が逝ってしまって5年の歳月がさらりと流れていた。【川口加代子】

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