一般的にアメリカの医療費はとてつもなく高く、健康保険金の掛け金も、ちょっとした血液検査もバカ高いので、日本に帰るたびに血液検査や人間ドックを受けるようにしていた。日本の病院での支払いのたびに、会計係が「患者様の実費払いなので高くて申し訳ありません」と謝ってくれるのが心苦しく「いえいえ、実費であっても、これがアメリカなら10倍、20倍ですよ」などと言っていたものだ。ところで、「患者様」と呼ばれて違和感を感じるのは、私だけだろうか? かと言って、横柄な呼ばれ方は、もっとイヤだが。
 さて、数年前から待ちに待ったメディケアが受けられるようになって、気持ちも人生も本当に楽になった。特に病があるわけではないが、メディケアがあれば、何かあっても大丈夫という気持ちになれる。翻訳家という仕事柄もあるが、なにしろ目だけは、最後まで見えていたい。まだまだ読まなくてはと思う本がたくさんあるし、これからも読みたい本が出てくるだろう。死ぬまでにやりたいこと「バケットリスト」に長らく鎮座していた「源氏物語を読む」は、数年前にやり終えた。瀬戸内寂聴の読みやすい現代訳だったので自慢はできないが、物語の面白さに引き込まれ、しばらくは平安時代に魅せられていた。
 そんなことを考えていたら、なんとアメリカで「禁書」が横行し始めたというニュースを目にするようになった。禁書は、日本では第二次世界大戦前から中期にかけての言論弾圧による禁書、中国では秦の始皇帝による焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)などが有名だし、現代でも香港やロシアの独立系新聞社が続々と閉鎖されたのも禁書の一つの形だろう。禁書の理由には、宗教的、文化的タブー、政治的などがあり、私が大学生の頃にメディアをにぎわせたのは作家、野坂昭如の「四畳半襖の下張」裁判だった。これは、月刊誌「面白半分」の編集長だった野坂昭如が、永井荷風の「四畳半襖の下張」を1972年7月号に掲載し、内容がわいせつ罪に当たるとされて、編集長の野坂と同誌の社長が起訴された事件だ。この裁判では、著名な作家が続々と証人として野坂を弁護し、私たちはその成り行きに夢中になったものだ。結局、有罪となって、いくばくかの罰金を支払うことになったと記憶している。
 何をもってわいせつ、反社会的、反文化的とするのかは非常に難しい問題だが、今アメリカの特に共和党の有力な州で起きているのは、コンサバティブな考えの保護者や政治家が、数百冊もの本を、学校や図書館から締め出そうとしていることである。その対象は、人種問題、セクシュアリティー、特にLGBTQ関連の本であり、子どもが自分のセクシュアル・アイデンティティーを考えるのは早すぎるという理由や、人種差問題の本は逆に「白人生徒に不快感を与える」という理由だというから驚いてしまう。多様性、民主主義、表現の自由を高らかにうたうアメリカだが、民主主義に反する行いをする政治家がひどく多いのは周知のことだ。しかし、学校や図書館の子ども向けの本にまで政治を持ち込むのはいかがなものか。
 ところで、落語の歴史にも、禁演落語五十三種というのがあったそうだ。これは戦時中に、遊郭や酒が出てくる噺(はなし)など53演目が、社会を乱す内容で時局柄ふさわしくないということで、当時の講談落語協会などが政府(軍か??)に忖度(そんたく)して、講演を自粛した53の落語の台本を、浅草の寺に納めたというものだ。戦後1946年に催された「禁演落語復活祭」によって、自粛解除となったそうだ。道楽者の若旦那や、長屋の間抜けな大酒飲みの噺が、また聞けるようになったのはうれしい。
 まだまだ、たくさん本を読みたいなどと言っても、最近はベッドに入って読み始めると30分もたたないうちに寝入ってしまうから、これは目の問題だけではなさそうだ。【上田 勢子】

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