米国滞在中、母の面倒は弟に頼った。まだ日本にいる間は、暇をみては休日によくお袋を連れ出した。箱根・熱海・伊豆など車の旅が多かった。仕事は忙しかったが、喜んでくれる母を連れて妻との3人の旅は気楽でもあった。
 40歳で駐在員として渡米することになり、母は心配した。私の決心が動かないと知ってからは愚痴をこぼさず、ただただ健康で過ごし無事な帰国を願っていた。そんな母を見ていると「3年か5年で帰るから」としか言えなかった。母は恐らく毎日カレンダーを見ながら帰国の日を指折り数えていたのだろう。
 空港で母は脇へ寄り、大勢の見送り客を避けて立っていた。飛行機の搭乗口へ向かう時はしっかりと私の手を握り涙をこらえていた。泣くでもなく笑うのでもない母の暖かい手のひらの感触は座席に座った後も長く尾を引いていたように思う。
 仕事で日本への出張があると、母はとろけるような笑顔で出迎えてくれた。米国や仕事の話をしても、ただただニコニコと笑顔で、私が好きな料理を食べてくれるのがうれしいようだった。アメリカへ帰る見送りはつらかっただろう。玄関から手を握って見送ってくれ、別れる地点では「もう帰るのかえ?」と何度も聞いて涙ぐんだ。米国の子会社は次第に軌道に乗り、仕事は面白かった。本社と違ってさまざまな改善点が思うように実行できる。駐在期間は伸び母が亡くなったのは渡米10年目だった。今年はあれからもう30年が経つ。母の思い出は昨日のことのように消えることはない。
 先日、イタリアの知人からメールが届いた。10年前に亡くなった愛妻の思い出があふれていた。暇を作っては彫刻家である奥さまとバイクでたくさんの国々を回ったそうだ。ギリシャ・スペイン・ポルトガル・モロッコ・ドイツ・フランスなど。米国の「ルート66」も、後席には常に愛妻がいた。「人は亡くなっても、その人の思い出がある限りその胸に生き続けています。だから奥さまの分まで長生きしてください」、と返信した。ウクライナ・ロシアの戦争下、そんな思いを抱えて生き続けている大勢の母たちが今日もいる。(若尾龍彦)

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