「できた!」。そう思った瞬間、新しいパズルを始める。うっすらとした記憶しかないが、幼少の頃、私は飽きもせず同じパズルで遊んでいたらしい。完成図すら知らないのに、パズルのピースを一つずつはめていく単純作業。根気が良さはこの頃からか。
パズルを一つの完成形とすれば、われわれは日々、異なる目標や課題としてパズルに取り組んでいる。目的を掲げ、または与えられ、それを成し遂げるために努力する。簡単にできることもあれば、完成しないまま終わることもある。それでも、ベルトコンベアーの流れ作業のようにパズルは目の前に現れる。生きている限り、休むことは許されない。
高校生になった時、用意されたパズルに何の興味も湧かなくなり、それをする意味も感じなくなり、どうしたら壮大で、美しい独自のパズルを作ることができるのだろう、と考えるようになった。その答えは日本になく、海外にあると悟った私は米国へ移住、30年の月日を重ね、ずっと模索し続けている。しかし、最近は自分が求めているものは、実はどこにもなく、外に目を向けている限り、答えは永遠に見つからないと考えるようになった。
ではわれわれはどうして終わりのない旅を続けるのか。それを探るために今年は2度に渡り祖国を訪れ、2カ月以上滞在した。昔の自分を知っている家族、親戚、友人、知人と再会し、昔の自分を教えてもらい、子供の頃に慣れ親しんだ日本の風景を見て周り、日本人として日本の環境に身を置いた。自分というものは何者なのか、今どこへ向かうべきなのか、そんな自分探しの時間だったかもしれない。
しかし、皮肉なことに帰国直前になってコロナの抗体検査で陽性が出てしまう。軽症だったが、しばらく人と会えない状況に追い込まれた。人との出会いや、見聞することで、パズルを作ってきたのに、それができなくなり、しばし思いを巡らせた。そして、一つの考えが浮かぶ。パズルは作るのではない、自分自身が誰か他の人のパズルのピースになるためのものなのだと。この日、奇しくも再検査で陰性が出た。新しいパズルピースの旅が始まる。(河野 洋)