東日本大震災で、世界中の人々から支援の手が差し伸べられる中で、外国に住むわれわれ邦人の多くが深刻な事態に陥った母国のために「何もできない」などと、もどかしさを募らせている。でも、われわれは「何かできる」。
 実際、遠く離れた外国からは、被災地にそう簡単に行くことはできず、無力感をにじませるのは理解できる。「寄付しかできない」。そう悩むことはない。寄付でいい。立派なことである。義援金は最も必要なことである。
 こういう緊急・非常時は、個人、団体、諸外国、誰からの寄付であろうとも実にありがたい。何十、何百万ドルをポーンと、出してくれる太っ腹の数々の米国の大企業。海外からのレスキュー部隊、医師団の派遣、日本がかつて助けた国々からは恩返しとばかりに見舞金の拠出など惜しみない支援。互助精神のある国際社会の一員であることをあらためて思い知った。
 震災後、さまざまな形で救援募金が行われている。ここ南カリフォルニアの日系社会では、街頭での募金運動が盛んだ。記者として取材したが、雨が降る中で髪を濡らして活動する奉仕員の方々には頭が下がる。
 そして、さまざまな人種の協力者。3、4歳の子どもがお父さんからもらったお札を入れる。ボロボロの車を運転する人と、スペイン語圏出身のバス通勤者のおばさんが印象的だった。善意を金額で表すのは止したいが、貧しそうに見えた2人が20ドルもくれた。募金箱は、お札でいっぱいになるばかりか、人々の愛がいっぱいに詰まっている。
 追悼式に参加しては、家族、友人が日本にいない人もひたすら祈ってくれた。思いは海を遥かに越えて、きっと日本に希望を届けることだろう。
 日本の復興は、5年、10年、もしかすると、それ以上の長期にわたるのかも知れない。忍耐の覚悟で、われわれは臨まなければならない。
 「何もできない」。そう考えることこそ、日本を思いやっている証し。われわれは、日本のために何かができる。【永田 潤】

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