月を愛でる、などと風流に縁遠いLAでの生活だったが、今年「お月見茶会」の末席を汚す機会を得た。
 日が落ちて、虫の声とともに満月が照らす中でのお点前。何ともいえぬ風情。日本では、昔から陰暦八月十五夜と九月十三夜の月を鑑賞する月見の慣わしがあった。月を愛で、詩歌や俳句を作り酒宴が催された。
 茶会は酒宴ではないが、月を愛でることに変わりはない。すすきや女郎花などの秋の草花にお団子をそえての野点。拝見したことのない和敬のお点前など、楽しませていただいた。幾通りもあるお点前の中から、会にふさわしいお軸や道具を選んで、趣向を凝らしてもてなす。茶道の嗜みが無いが、亭主の心遣いは感じられる。それにしても、みごとな名月だった。
 月は、満月でも三日月でも雲に見え隠れする月でも、何か人の心に思いを起こさせる。
 百人一首にも月を歌ったものがあるが、恋しい人を待ちながら眺める月、月を見て物悲しい気持ちを歌ったものなど、お日様のように明るく元気なイメージとは趣が違う。
 LAにいると、朧月夜とか月に叢雲のような言葉が浮かんでくる光景にであうことがない。あるのかもしれないが見たことがない。月に行くことが珍しくもない今、誰も月でうさぎが餅つきをしているなど信じる人もないだろうが、そんな風に思って見ていたことを幼稚だとは思わない。月には、自然界の現象なのだが表情があって、それを人間は勝手に解釈して、ロマンや悲哀を感じてきた。
 いつも明るい月ばかりを見ていると、そういう感情を持って眺めた月があったことを忘れてしまっている自分に気付く。雲ひとつない満月の明かりの下での茶会ではあったが、久々にじっくり月を鑑賞した。
 月にまつわるいろいろを思い起こした。科学の話ではない。ロケットで行ってみる話でもない。月を見て一句、の才も風流もない。この月を遠い地の背の君も眺めているのだろうか、と思ったのは遠い昔のこと。
 ざわざわした毎日の中で、忘れていた月との戯れ。心洗われる一時を過ごさせていただいた。連日の猛暑にあっても、秋を感じられた一時だった。【大石克子】

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