急坂に刻み込まれた階段を、ヨイショヨイショと掛け声かけながら300段近く。息を切らしながらようやく小高い丘の頂に到達した。木々の間からは、眼下に四国霊場33番札所の雪蹊寺が見える。太平洋も見える。
 この春、高知・桂浜に程近い夫の実家を訪ねたところ、津波の際の避難路が近所に出来たというので、母と一緒に下見に訪れたのだ。が、米寿を迎えた母は、避難路の先に続く急な階段を見上げて、歩を進めるのを諦めた。一歩ずつ最後まで上ってみた私も、この傾斜と道幅では母には無理だろうと思った。夫は「この道はだめだよ、他の場所に逃げなくては」と母に何度も言い、周囲を物色している。
 墓地の周りにまで住宅が建ち並ぶ今の様子からは想像できないが、夫が子供の頃には浜から実家までは途中に墓地があるだけで、夜は波の音が聞こえていたという。来る、来るといわれて久しい南海地震がもし起きれば、そして東日本大震災級の津波に襲われれば、ひとたまりもない土地なのだ。
 先祖代々住む家からどれくらいの時間で丘のふもとまでたどり着くかと、老いた両親を案じた夫が父親と一緒に歩いてみたのは、確か2年前。今回も、避難経路でなくていいから少しでも早く高いところに逃げなきゃだめだよと、夫は母に繰り返していた。
 海沿いの道を空港へ向かう途中では、完成したばかりの津波避難タワーが見えた。避難する高台の全くない海辺のコミュニティーに、とりあえずの緊急避難の場として建てられたもので、高さはビルの3階ほど。
 そのタワーを見ながら、助手席の母が言う。「私はいつも用意しているのよ。津波が来たら高台に住む知人の家に逃げるつもりだけれど、世話になる感謝の気持ちを形にするにはお金。災害直後に役立つのもやはり現金だろうから…」。ハンドバッグの中から取り出したものは、アルミホイルにしっかりとくるまれた何枚もの一万円札。どこに行くにも身に着けている小さなバッグは、津波に対する母の覚悟を表していた。
 津波がくればひとたまりもない土地に暮らす緊張を、ズシリと感じさせられた帰省だった。【楠瀬明子】

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