多店舗化する上で、アーバイン店は「失敗は許されない」と、覚悟を決めての出店だ。大成功したトーダイで富を築いたが、「失敗から学びながら大きくなった」とおごることはない。マキノでも共同経営の難しさや破産も経験し「ビジネスはやってみないと分からない。(成功を続け)自信過剰な面もあった」と、反省を次の事業に生かしている。

東京都出身。1984年に渡米。トーダイは21店舗に広げ、1000人を超える従業員を抱えた
 記憶がおぼつかない4歳の時に、おたふく風邪を患って中耳炎を併発させ、聴覚障害となった。「耳が聞こえないので、人の2倍、3倍頑張らなくちゃいけない」と、持ち前のやる気とアイデアでハンディーを補ってきた。信条の「努力」を惜しまず、68歳の今でも365日、昼夜問わず働き通す。「ハンディキャップなので、みんなの助けが必要。みんなに支えられて僕は、ラッキー」と感謝に堪えない。
 オーナーシェフとして、厨房に入り陣頭指揮を執る。「お金を払ってもらっているので、お客さんにはおいしいものを食べてもらいたい」。料理には厳しく、完成品を一つひとつチェックし、納得がいかなければ下げさせる。「よく怒鳴って、うるさい」と自認するが、「愛情」と受け止められ「マキノで骨を埋めたい」と言う社員もいるほど人望は厚い。
 思い切りの良さと発想力は、亡くなった母譲り。「思い出すと涙が出てくる」という母には「しっかり、しなさい」と尻を叩かれ、ビジネスの不振で落ち込んだ時に資金を工面してもらうこともあった。「僕をいつも守ってくれているようだ」と、母の遺影には毎日手を合わせて拝む。
 日本で弁当屋を営んでいたが「進歩がない」と見切りをつけ、弟の通さんを頼って渡米。通さんが経営した「江戸っ子」を手伝い、のれんわけの形で独立した。弟とはビジネスでもつれ確執が生じたこともあったが関係を修復できた。「やっぱり兄弟なので、助けたくなる。(母も願っていたように)また、一緒にやりたい」と、弟思いの兄だ。
 「レストランビジネスはエンターテインメント」と信念を貫き、「お客さんには喜んで帰ってもらいたい」。本来の型を崩した日本食を嫌い、特にすしは「日本人のイメージが悪くなる」と危惧する。「バラエティーに富んだメニューで、アップグレードしたマキノを見てほしい」と意気込む。【永田潤、写真も】

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