地球の自転速度が速まるほどの威力を持ったチリ大地震。その前に起こったハイチ地震、さらにまたトルコ地震と、自然の計り知れない力を知らされる。復興の見通しも立たない甚大な被害。見送りもできない突然の出来事に傷口はさらに大きいだろうと思った。
暗いと捉えられがちな看取りや見送りの話題を時々取り上げているが、暗いという認識をほとんど持っていない。取り上げられた赤子が、その命を終える一連の流れと考えるからだ。
知人からの手紙に、最近読んだ看取りの本に、幸せな死を迎えた人のことを「幸齢者」と呼んでいるそうですとあった。高齢でみんなに声を掛けられて死んでいった人は、みんな仏様のようなよい顔をして、看取った人にも幸せなパワーを伝えるとのこと、とあった。看取らせていただく幸せはずっと感じてきた。「幸齢者」と呼びたい気持ちはよく理解できる。
昔のことをよく話すようになると歳を取ったといわれるが、最近思うのだが必要なことなのではないかと。誰しも何かしらの屈託や後悔、閉じ込めておきたい嫌なことなどがあるのではないか。そのことをあの世まで持っていくというのはドラマの台詞。多くの人は軽くなって往きたいと思うのではないだろうか。その無意識が昔話になって口を吐いて出る。後悔が直接的な言葉にならないかもしれない。嫌なことの前のいいことを話すかもしれない。懺悔を聞いてもらいたいときもあろう。聴かされる側には、それが分かっても分からなくてもいい。語る本人が、閉じ込めていた嫌な思い出を取り出すことができて、それを消化させ、嫌なことから開放されることができたら幸せな死を迎えられるのではないだろうか。
老年学会に参加していた頃は、数量統計に重きを置く発表が多くて、こういう解釈を意見交換できる研究者は少なかった。知人も死や仏教の知識が必要と思って学んでいるという。
看取りの場が増えるごとに、一人一人の心のおりに触れたと思うときがある。そのときには寄り添いしかない。 【大石克子】