インターネットの「衆議院TV」で、鳩山首相と自民党の谷垣総裁との党首討論を見た。
異国に住んでいるものが祖国の宰相を貶すのも気が引けるのだが、鳩山さんは、言葉遣いは丁寧なのだが、理論構成があまりにもワンパターンなのが、気になってしかたなかった。『理想はこうだが、現実はこうなのだ』というパターン。それをつなぐのに接続語的に使われているのが、「当然のことながら」という語句。この党首討論では、少なくとも8回は使われていた。
例えば、普天間基地移設問題について、「3月末までに1つの結論を出す」と以前から明言していたことを追及されると、そう言ったのは確かだが、「当然のことながら、法的に何かを決めなければということではありません」といった具合だ。
前言を覆す時に、この「当然のことながら」という常套句を使い、『かってそう言った自分』と『出来なかった自分』とを見事に使い分ける。責任を『第三者であるもう一人の自分』に押し付け、『今の自分』とを切り離す手法である。
ことほど左様に、元秘書の政治資金規正法違反にしても、母親からの多額の脱税献金についても責任は感ずるが、「当然のことながら」『今の自分』は、職務に徹することしかない、と開き直る。
これまで新聞記者として、何人もの総理大臣の国会答弁をつぶさに聴聞してきたが、こうした答弁を「当然のことながら」繰り返す宰相は初めてだ。
アメリカ人の知日派学者との会話でこの鳩山さんの「当然のことながら」が話題になった。英語では、naturally、deservedlyといった表現になるのだろうが、それだと、「だから責任をとって・・・する」という文章があとに続かないとロジカルではない。
政治生命を賭けた普天間問題が5月に決着しなければ、鳩山首相はどうするのか。「当然のことながら、5月決着は法的に何か決めなければ・・・」とでも、のたまうのだろうか。【高濱 賛】