手を使う作業が続いて、活字から離れていた。久しぶりに読んだ新聞は半年以上も前のもの。もはや新聞とはいえない代物。昨12月の朝日新聞に、天空に浮かぶクリスマスの飾り? として、丸い半透明のリングの写真があった。超新星爆発で生じたガスでリングの直径は23光年、爆発は400年前…と、半年前などまだ直近のことに思える記事。はてしない宇宙に思いを馳せた。
その記事から5カ月後の新聞には、3月の東日本大震災による、海にさらわれたごみが、年月を掛けて海流に運ばれ、このアメリカ西海岸やハワイに漂着するという。大きな船や家具、冷蔵庫が海を漂うのかとその様を想像するのだが、魚が泳いでいるのとはわけが違う。思い出の品、遺留品を求めている被災者の気持ちに届くまで何年かかるのだろうと案じられた。しかしながら、自然の力とは、と驚愕に堪えない。
紙の新聞書籍が減っていく昨今だが、新聞も本も紙がいい。すぐに読めないからと取っておいたものを数カ月、数年経ってからでも手にとって読める。もちろん、電子新聞でも読めるかもしれないが、読もうという気持ちにならない。パソコンに向かって読むというのが、まず嫌だ。壮大な話で始まったのに小さくなってきた。
やっと、活字に親しんだと喜んでいたのも束の間、自分で折ったローズをガールフレンドにあげたいから教えてほしい、玖珠玉(くすだま)を作りたいと言われれば応じてしまう。すっかり折り紙屋さんになっている自分に苦笑。しかし、全く折ったことのないアメリカ人が、諦めずに何回も折って、それなりの形になったときの笑顔をみると、うれしくなるのも事実だ。
日本の常に追われるような社会の中では、新聞三紙も当然のごとく読んでいた。情報は常に新しいものであって、読まず書かずの日が来るなど考えもしなかった。身をおく社会、状況の変化で何事も変わる。紙をめくって文字を追う。行きつ戻りつもある。文字と戯れる一時、満たされた気分になる。ちょっと涼しくなって、読書にはいい季節になる。存分に触れ合いたいという欲求が頭をもたげる。【大石克子】