お盆供養の時期になった。故人を偲んで供養するとき、その人が生きていた時代、社会背景にふと思いを馳せるときがある。あんなことを話していたのは、あの頃のあの状況では…と、少し当時の社会状況・家庭環境を理解できて、ちょっと気持ちを近づけられたときに思い当たる。
中学時代、歴史の先生は年号と起こった事象をただ羅列するだけだったので、興味を持てず覚えられなかった。それが高校生になって、その時代には自然災害があって、そこにこんな人が現れてどうしてこうしてと、自分の中にパノラマが広がるような授業を受けた。受験勉強には不向きだったかもしれないが、当時の人物が生き生きと見えてきて楽しかった。
先日、移民に興味を持って勉強している知人が来羅した。帰国直前になって日系移民のことを研究者ではなく一般の人が分かるものを書きたいと言った。とても大事なことだと思ったが、易しい言葉で書くテクニックは? と尋ねるのを聞いたときには、違和感を持った。他の研究者が書く、一般の人が興味を持たない論文ではないものということだが。
年表作成ではなく、その時代の人がどんな生活をして、政治・社会の影響がどんなもので、それが後にどういうことになって、今の私たちにこういう形で受け継がれているとか、影も形もなくなったというように、身近に感じられる内容でなければ、一般の人は興味を持たないだろうと思った。
文献からだけの知識では、一般の興味を得られる内容は難しいと思う。生活に結びついた話は共感を得られることもあろう。多くの体験談は、同じ事柄についてもそれぞれ立場や住んでいた場所などが違っただけで、別のことかと思うようなことがある。証言者がいない古(いにしえ)のことは、その時代に生きた人についての文献によるが、書いた人の視点によって印象が変わる。人がつむいだ歴史は宝物。それをいかに拾い上げるかだろう。
歴史は今に通ず。だからおもしろい。今年四回目を迎えるLA七夕祭りも、後の世に歴史を尋ねられるように続いてほしいし、コミュニティーの人たちの努力があったなどと、語られるようになることを願う。【大石克子】