戦後、洋裁を学ぶため米国に戻り、結婚。原爆後遺症によるPTSDと激しい腰痛に悩みながらも娘を出産した。
71年に米国原爆被爆者協会の創設と同時に会員となり、副会長に就任。被爆者であるがゆえに医療保健にも加入できない米国在住の被爆者の現状を訴え、在外公館での被爆者手帳の申請交付受付や、日本語での在米被爆者検診の実現に寄与した。
92年には米国広島・長崎原爆被爆者協会が創設され、後に会長に就任。平和教育の一環で、ロサンゼルスの日本人補習授業校などで、平和特別授業を実施。原爆体験の講演では、「憎しみはプラスにならない」との思いから米国への非難を述べることはせず、「話し、許し合うことの大切さ」を伝え続け、草の根レベルで日米の相互理解の促進に貢献した。
また国連軍縮習慣では国連本部での被爆者証言イベントに参加。自身の体験を話し平和を訴え、米国の若い世代にも軍縮・不拡散教育について認識してもらう契機となった。
受章を受け同氏は、「このような章を頂けたのは自分1人の力ではなく、多くの人々の協力と理解があったからこそ」と語り、被爆者検診に尽力した日系医療協会(JCHA)会長の桜井フレッド医師、1972年から実施しているメモリアルサービスの会場を提供し協力を惜しまなかった高野山米国別院名誉主監の宮田諦詮師ら祝福に訪れた出席者に感謝の気持ちを述べた。【吉田純子、写真も】