陪審員の召喚が来た。行かにゃあなるまいて。朝8時の出廷命令に7時半に着いたが、先着組が10人ばかり。反対に30分も遅れてくるつわものもいた。さすがはアメリカ、人さまざまだ。一般市民から免許証を基に無作為に選ばれた約180人が待合室に。皆さんきちんとした仕事着。マイノリティーは約10%。ほとんどがコケイジャン。
 60人のグループに分けられ、いよいよ法廷に誘導された。刑事責任を問われている被告人とその弁護人、原告人の検事、警察官2人が起立して60人と顔合わせをして、迎える。法廷はせき一つ聞こえず、だれも身動きさえしない。
 裁判官が現れ、陪審員のルールが説明された。被告にはたまたま前科があった。それを考慮に入れないこと、法廷に提示された事実だけで公平な判断を下すことなどが法律書を開けて説明された。
 60人から最初の18人が陪審席に呼び出された。各自、家族、職業、過去の陪審暦を話す。最初に裁判官が、その後、弁護人、検事両者が適性を試す質問をする。偏見がその人の判断に影響を及ぼしそうな人が外された。空席を埋めるために次の何人かが出る。また質疑応答でふるいにかけられる。この繰り返し。こうして原告、被告にとって、有利な陪審員を選ぼうとしているようだった。
 この日は軽いケースだったが、殺人などのケースもある。法廷に提出された証拠と裁判官の説示で評決が下されるが、しょせん、法律には素人の市民が評決を答申するのだ。その上、人種の坩堝(るつぼ)の米国だ。適正な陪審員選びが公平な評決の鍵をにぎる。
 夕方になる頃に最終選任された12人と予備2人が宣誓した。明日から仕事を休み、一日15ドルでトライアルに臨む。犠牲を払っても市民の義務を遂行することにある種の誇りがあるはずだ。今回は選にもれたがいつか私も。清潔な外見。はっきりと自己表現できること。公平な判断を下せる良識を持つ。誰にでもその気になれば出来る。
 アメリカの学校で年度末に表彰されるのは、まず、よき市民賞。それから学問、運動に優れた子供へと。よき市民賞は誰にでもチャンスがある。次の召喚が楽しみだ。【萩野千鶴子】

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