震災から2年目の3月10日、私の所属する混声合唱団はLove to Nipponというイベントに参加した。LAPDのオーディトリアムで「花は咲く」を歌った。
 会場屋外には、日本に向かって立てられたメモリアム彫刻が黄金色にひかり、祈りが捧げられた。線香の匂いが流れる。1万9000人の犠牲者の方々の無念が、いまさらながらにこたえた。叶えたい夢もあったろうに。発起人の鵜浦さんの話も真に迫るものだった。被災者の身の凍るような話はどれも貴重だ。どんなに文明の利器が発達しようとも、それ以上に大きい自然の力を忘れない教訓ともなった。
 私の姉は仙台の施設で働いている。そこは片親の幼児を優先的に預かる保育園と幼稚園。その時はちょうど、幼児のお昼寝の時間だった。異常な揺れに子供を起こそうとするが、寝入りばなの子供はなかなか起きない。施設は丘の中腹にあるが、非常時には山頂に上がることになっていた。大人も立っていられないほどの揺れに、這いつくばって山頂に逃げた。家族を心配する職員を帰宅させたいが、子供を預かっている。それが幸いして、職員を含む全員を死なせずにすんだと後に姉は述懐した。
 一方、当地で義援金を送りたいという米国人Tさんがいた。個人のところに直接送りたいと言われる。ある方の仲立ちで、Tさんからの義援金をこの施設が頂くことになった。
 会社経営者のTさんからの金額は相当な額であった。ところがその後、何度も、何度も送られくるのである。不思議に思って尋ねてみると。Tさんの弟がイランの遺跡を観光している時地震に会い、犠牲になられた。Tさんが弟の会社を継ぐ。以来会社の取引契約が成立した時は、その利益の一部を必ず献金することに決める。契約相手も協力する。これが義援金が繰り返し送られてくる理由だった。私は姉に頼んだ。子供たちの写真、日本的なカードなどをTさんにしばしば送るように。そんな関係が続いて2年になる。不思議なものだ。好意を受けた側、仲介して下さった方、Tさん、取引相手。みんなに励みと喜びがある。人の輪ができた。それが継続の力をささえている。【萩野千鶴子】

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