世の中、「当たり前だろう」「常識さ」が満ち溢れている。でもそういったことは「誰にとって」なんだろう。「もちろん、みんなにとってさ」と返ってきそうだが、さて「みんな」とはいったいどこの誰なんだ。
よくよく考えてみると、他の誰でもない、あくまでも自分を中心に据えて口にする言葉だと気が付く。気が付いても「あれっ」とは思わない。思わないところが怖い。
常識一つとっても、関西と関東、日本と米国で基準が違うのが分かる。本来は同一地区に住む不特定多数の人が生活する上で、摩擦を最小限にするための意見をもって「常識」と言ったんじゃないかな。その場所から離れると常識が常識ではなくなることもある。
例えにはならないかも知れないが、中国などでは「ゲップ」はおもてなしに対する賛辞らしいが、欧米では下品な行動とされる。
ここアメリカには世界中から人が集まって来ているから、理不尽さも常識もズレがあって当然なのだが、それを容認できない人もまた多い。
日本人社会の中でも「日本人だから××しなくちゃ」といわれて目が点になることもある。そこで「それは違う」と反対しようものなら即「村八分」状態へ。「あの人、変だ」のレッテルを貼られ、それが貼った人たちの「常識」となる。
群れ集うのが人の習性。その中でうまく付き合うためには必要なことではあろうが、流行りものやトレンドを押し付けられるともうだめ。個人的には占い大好き人間だけど「星座」とか「血液型」なども同じで、「僕と同じ星の下に生まれた人は僕と同じ不運を背負っているのか」などと突っ込みたくなる。もしかして僕の星座や血液型はそんな「天の邪鬼」的な性格を持っているのかな。もっとも血液型については、事故の際や手術などの緊急時にそなえ知っておくことを勧める。
何はともあれ僕ら「変な」夫婦に育てられた娘はもっと変人だけど、「常識」に縛られない、人と違うユニークさをいかしてほしい。【徳永憲治】