上海出身の先生に就いて書法と墨絵の手ほどきを受けるようになって足掛け3年になる。
新聞記者として字を書くことを生業(なりわい)にしてきたが、ここ20年近く、文章を書くときもペンを走らせるということはない。ワープロのキーを叩けば、すべて漢字に転換してくれる。「漢字を書くこと」には疎遠になってしまった。
高校の時、漢詩を習ったはずだが、米国留学を目指し、英語一辺倒となり、李白も杜甫も遠い存在になっていた。古希になって、その漢詩が身近になってきた。中国の詩人たちは、アルファベットでは到底表現出来そうにない心の機微を4字、5字の漢字でぴたりと言い表している。その漢詩をなぞっていると、唐や宋の時代の詩人たちの心の動きが仄見えてくる。漢字が読める「特権」をひしひしと感じる。
書法と墨絵とは切り離せない。漢詩は墨絵の構図の一部になっているからだ。初心者が言うのもおこがましいが、漢字を書くときの筆さばきはまさに墨絵を描くときの基本になっている。
「落葉帰根」という熟語を書いた。直訳すれば、「人間は落ち葉が根元に帰るように死んだら故郷に帰る」。解釈はいろいろあるが、識者の中には〈人は去っていくのではない。自分の生まれる前の時点、命の水源、つまり非自己に還るのだ。老化とは自己が崩壊していく過程なのだ〉と捉えるものもいる。
「落葉帰根」の対義語に「落地生根」がある。「遥か故郷を遠く離れ、異国の地に渡り、その地に同化し、子孫を作り、その地の土に帰る」。
神戸華僑歴史館の壁に掛かっている華僑の人たちのコンセプトだ。350万人の中国系アメリカ人はまさにそれを地でいっている。その3代目の中からは、アメリカ合衆国特命全権大使として祖父母の故郷に錦を飾るものまで出ている。
「落地生根」は日系アメリカ人にも相通ずる。苦難の時を乗り越えた一世や二世の人たちは、ちょうど枯れた葉が地に落ちるようにアメリカの大地に帰っていく。根元に種を残して。そのことに思いを馳せる「二世週」がいよいよ佳境に入る。【高濱 賛】