街はクリスマスのイルミネーションで飾られ、師走の様相になってきた。慌しい気分のなかで、身の回りでも亡くなる人、家から施設に入居する人が相次いでいる。
家を片付ける場に居合わせると、その人の人生に触れた気になる。関わった人間関係、興味や趣味、社会的な関わり、宗教、年齢と生活能力、価値観等々。その人が大事にしていたものと、残った者が大事だと思う物との間には大きな差があることがよくある。家族といっても、共有する時間や会話の有無、本人に対する理解の度合いに左右されるのかもしれない。
ご縁をいただいたKさんの5回目の命日がそろそろだと思いながら、日本の妹さんはどうしているのかと考えていた。その命日に、7日前に亡くなったと知らされた。図らずも姉妹の命日が同じ11月。連絡を受けた時、何故か住んでいた部屋が浮かんだ。余分なものがないすっきりした部屋だった。仏壇には花が供えられていた。80有余年生きて、こんなにも軽くできるのかと感心したものだった。市営住宅に移るときに処分したのだろう。
自分の身が思うように動かなくなると、意に反して捨てられたり、片付けたいのに、それができなくなる。大事に収集していたものを、子どもが簡単に捨ててしまう。また、歴史的価値がありそうだと、図書館や博物館に寄付しても活用されないことがある。ままならないものだ。
知人の一人は65歳になった時に、所属していた学会を退会し、蔵書も処分した。その後、がんが見つかったときには、病気を予知してのことかと思ったほどだった。
生きているということは、何かしら余分なものがついていく。それが最期にはやっかいになる。軽くなろうと意識して生活しないと、わが身に何か起こった時、思うとおりにしてもらえない事態に陥る。それは致し方ないと、初めから覚悟しておくか、溜め込まず整理に励むか、どちらかだろう。
老いを意識して、人の迷惑にならないようにと準備するのはいいことだ。しかし、片付けに携わることは、生きてきた証に接する、その人となりを知る貴重な機会を得ることだと思っている。
【大石克子】