私は日本企業の海外駐在員として長期にわたり、日本を離れた生活を送った。それだけに、海外駐在のはざまとなった時代に日本で収集した日本語の書物、レコード、録音テープなどは私にとって貴重な財産となっている。収集品のひとつが当時ラジオで放送していた『文化講演会』テープ集だ。最近、これらのテープを聞き返しているが、この中で印象深いのが、銀行の取締役から作家へと華麗に転身した土岐雄三さんの講演テープだ。土岐さんは平成元年に82歳で亡くなっているが、恐妻家を自認する彼がユーモアあふれる語り口で奥さま(カミさん)について語っている。以下、土岐さんの夫婦愛物語り『老いを楽しむ』の一部を紹介したい。
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「老い」を楽しむには人との出会いが大切だ。自分のような年齢になると、人生という財布に残金は少ない。財布に大金が入っていれば、百円玉ひとつくらい落としても騒がないが、残りが500円くらいになると、十円玉ひとつでも大切だ。人生の残り時間が大切に思えるのだ。自分は山本周五郎という作家に可愛がられ、戦後、彼の仕事部屋の横浜へも行くようになった。あるとき、私が山本さんにカミさんの愚痴をいったことがある。そしたら山本さんに、自分の女房をもっと誉めなければダメだと諭された。日本人の亭主は奥さんに対し怠けものであり、イギリス人を奥さんにしたある日本人の弁護士さんは、一日に3回『君を愛している』っていっているそうで、さらに日に1回は彼女の肌に触れてやる必要もあるんだそうだ。自分はカミさんの肌に触れるなんてことは長い間ごぶさたしており、例えばコタツの中で互いに足が触れ合ったりしても、なんか汚物にさわったような気分になり、足をひっこめたりしちゃって。でも気を取り直してずーとさわっていると決して汚物感はなくなる。そこでわかったのだが、愛しているものは可愛がってやらないとダメだということだ…。
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土岐氏は亡くなる直前、最後の作品の中で「放浪の旅もそろそろ終わりだ。最後にヒトコト。カミさん、ありがとう」と締めくくっている。【河合将介】