異文化を学ぶことでお互いの理解を深め合おうと企画された市民団体のコミュニティー訪問ツアーに参加した。
 日系サービス・センターを訪れた一行が、柔道の道場を訪れ、和太鼓の練習風景をのぞき、折から開催していた日本の家庭料理教室にも立ち寄り、揚げだし豆腐と豆腐サラダを試食してひと休みしたときのことである。
 「あなたは何処から来られましたか」
 グループの中の最年長と思しき女性がボランティアのKさんに尋ねた。
 「カリフォルニアから来ました」
 「その前は…?」
 Kさんはその婦人が何を尋ねているのか既に分かっていたようだが、「私はアメリカで生まれましたが、第二次世界大戦中は敵性外国人とみなされて、日本人の両親と共にアーカンソー州の戦時強制収容所に収容されました」と静かに答えた。
 それまでKさんの顔を見ながら話していた婦人は一瞬目を伏せたが、再びKさんを見詰めて「きっと大変だったことでしょう。私たちがあなた方に困難な暮らしや苦しみを強制したことをお詫びします。アメリカ政府は市民であるあなた方まで収容したのですか」
 「ええ、収容された12万人のうち、三分の二は米国市民でした」
 カルチャー・ツアーのつもりが、いつか話はアメリカの汚点であり、語られることの少なかった日系人の歴史へと及んだ。
 偶然収容所生活を体験したKさんがその場に居合わせたことで、正確に歴史を伝えることができた。
 Kさんは今年90歳、現役時代はカウンセラーとして活躍し、退職後はボランティア活動を続けており、矍鑠(かくしゃく)としている。
 ある日本人の永住者が、「日系人はいつまで収容所に入れられたことを言い募っているんだよ。いい加減にそこから抜け出して前向きにならなければ…」と知ったかぶりの一言を吐いたことがある。この男性にとって戦時収容所での暮らしはまったくの他人事であり、雨で濡れた洋服が乾けば夕立に遭ったことを忘れるという次元の話だが、日系人の戦時体験は、体験者が居なくなっても語り継がれてゆかねばならない大切な歴史なのである。
 繰り返さないために…。【川口加代子】

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