思いがけなくこの夏、あるシアトル日系先達の山に懸けた情熱を知った。
 今月半ば、一年ぶりに訪れたレニア山国立公園でのこと。中腹にあるパラダイス・インで催されたパーク・レンジャーによるプログラムのテーマは『To Climb A Mountain』。夕食後ロビーに集った宿泊客を前に、多くの困難に直面しながらもレニアを愛し山頂を目指した人々のことが紹介された。
 その中の一人が、松下巌さん。福岡県生まれの松下さんは、東京外国語専門学校を出て中学校の英語教師をしていたが、英語を本格的に勉強するため、1919年シアトルに上陸。シアトルでは日系商社に勤務すると共に、ワシントン大学日本語科の講師を務めたりした。
 カメラを愛し、ハイキングと書くことが趣味で、レニアに魅せられると200回近くも山に通い、写真をはじめ数多くの貴重な記録を残した。
 「差別の強い時代。日本に帰れば良い地位が得られるにも拘らず、レニアから離れたくないと彼は永住を決意」とレンジャーは語り、松下さん自身も、「ニューヨーク支店転勤の話が持ち込まれたが、シアトルにあの美しいレニア山のある間、この土地を去ることは出来ないと言ってニューヨーク転出を拒んだ」と振り返っている(『続・北米百年桜』)。
 日米開戦と同時に逮捕されモンタナに送られた夫を、レニアを仰ぎ見ては偲ぶ松下夫人の手紙も紹介された。やがて夫人が、続いて松下さんもアイダホ州ミネドカの日系人収容所に送られたこと、そして今、ミネドカが「アメリカの冒した間違いを繰り返さないため」に国立公園局の下に置かれていることもまた、全米各地からの百人以上の観光客を前に語られたのだった。
 亡き松下さんがかつてシアトル国語学校の校長を務め、地元邦字紙に寄稿していたことは知っていたが、レニアに注いだ情熱を私はそれまで知らなかった。映像と語りで紹介されるイワオ・マツシタの姿に人々は聞き入り、私の胸は熱くなった。
 レニア中腹パラダイスでは、雪解け水が斜面を走る音があちこちで響いていた。雪が解け高山植物の花が咲き乱れる「お花畑」が出現するのは、今月末から8月初めだ。【楠瀬明子】

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