昔から「一月往(い)ぬる、二月逃げる」といわれてきたが、まさに2月はあと数日を残すのみで3月を迎える。今年の日本は戦後70年という節目の年であり、3月は「東京大空襲」から70年目にあたる。米軍による日本の都市部を標的に焼夷弾による無差別爆撃は一般市民に対し大きな被害を与え、空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされている。特に3月9日夜から10日未明にかけての大空襲は市民100万人以上が被害を受け、10万人が惨殺されたといわれる。私はその大空襲を東京下町で体験した目撃者で生き証人の一人だ。
当時、私は6歳、国民学校(小学校)1年生だった。東京の下町(墨田区)で生まれ育った私にとってそれはまさに悪夢の一夜だった。夜空を覆う不気味なB-29の編隊と、頭上に撒き散らされる無数の焼夷弾の束。母と姉の手にしがみつき、燃えさかる炎と舞い散る火の粉の中を夢中に逃げまどった幼い私、一時は橋の焼け落ちた川辺で死をも覚悟した。今でも時々夢でうなされる光景だ。
九死どころか千死に一生を得た私たちは、路上に横たわる黒こげの人々をひたすら跨ぎながらわが家の焼け跡に戻った時、そこに防空団の父も待っていてくれ、一家の無事を確認し合い不幸中の幸いを喜びあった。数日後、学校の焼け跡に集合した私たちは、つい数日前まで一緒に勉強し、遊んだ同級生の半数以上がこの空襲で死んでしまったことを知らされた。
戦後、再び焼け跡で生活を再開させたわが家だったが、食糧難で親の苦労は大変だったと思う。当時、私たちの救いは「ララ物資」と呼ばれるアメリカからの救援物資で飢えをしのいだ。このようにして悲惨な敗戦市民は『堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ』焼け野原から立ち上がったのだ。
私は今、当時の対戦国アメリカに滞在し生活をしている。空襲による被害については講和条約などにより解決済みであり、特に問題にするつもりはない。ただ、生き証人が存在しているうちに歴史の事実を次世代へ残す意味で、戦後70年を生きぬいた私たちは過去の体験・想いを生きているうちに整理しておく必要があると思う。【河合将介】