久しぶりに、マラソン中継を見た。LAでは初めてのことだ。給水ボランティアで、定点では見たことがあったが、スタートからゴールまでというのはなかった。ただ、場面が変わって、誰がどう仕掛けてレースの流れがこうなったのかが分からなかった。日本で見ていたカメラアングルと違って、こういう映し方が好まれるのかと思った。
感じ方の違いといえば、最近「○○だから尊敬される日本」のようなタイトルの本が多く出ているように思う。以前は「NOといえない日本」のように否定的表現がよくあったと記憶している。卑怯をきらい、毅然として、武士道の伝統文化を身につけた日本人は世界の中で一目おかれる的な本を読んだことがある。「そうだ」と胸を張る気分でいるところに、ずる賢いのではといわれることがあった。
日本人旅行者の被害届が出されるところでボランティアをしていると、本当に気の毒だと思い、次に来た人に注意喚起もしていた。
ある時、本当に被害にあっているのか? と問われたことがあった。保険金を受け取るための被害届ではないかという意味である。思いもしないことだったので、少々ショックだったが、他の日本人に話したら「あり得ると思う」の返事が返ってきた。
日本人が正直で、勤勉な働きぶりだったから信用を得られ、その土台があったから、後から来た者が優遇され、助けられたという話をよく聞いてきたので、「日本人の信用」はどこへいったの? と思った。その日本人は、「この国で正直にだけやっていたら、やられちゃいますから、しょうがないところもあると思いますよ」と続けた。
日本人の信用をビジネスにつなげていたものが、通用しなくなって、生き抜く知恵が卑怯な方法に向かわせたのかと考える。異国での難しさと、それでいいのかというさびしさはぬぐえない。
最近の争いごとや事件を見ていると、正義も然り。立場や文化によって、定義が変わるように思う。悪に向かう正義ではなく、正義対正義に見えるときがある。だから、日本人の勤勉さや正直、正義を忘れたくない。だまされてもいい、日本人である気概と誇りだけは失いたくない。
【大石克子】