約1マイルという小さな地域で継承される日系史に敬意を示し、集まった支援者を前にあいさつする第11区のボニン市議(中央)。右は堀之内総領事
約1マイルという小さな地域で継承される日系史に敬意を示し、集まった支援者を前にあいさつする第11区のボニン市議(中央)。右は堀之内総領事
ソーテル通りとオリンピック通りの角に設置される「ソーテル・ジャパンタウン」の標識
ソーテル通りとオリンピック通りの角に設置される「ソーテル・ジャパンタウン」の標識

 ウエストロサンゼルスに「ソーテル・ジャパンタウン」が正式に誕生した。米国内の日本人街が衰退、消滅していくなか、戦前から長きにわたり日系の歴史を誇る同地域に、新名称が捧げられた―。

 戦後、収容所から戻った日系人は壮絶な人種差別を受け、多くの地域で土地を購入することができなかった。ウエストサイドで唯一、土地の購入が許されたのが、北をサンタモニカ通り、南をピコ通り、東をサンディエゴフリーウエー(405号)、西をセンティネラ通りに囲まれたこの約1マイルのソーテル地域だった。収容所から戻った日系人はこの地で互いに励まし支え合い、家族を築き、「子どものために」を合言葉に懸命に働き、強い絆の中で築き上げられたのが、このソーテル・ジャパンタウンだ。
 ソーテル通りとオリンピック通りの角で29日に開かれた標識設置セレモニーには、同地区を管轄に含む第11区代表のマイク・ボニン市議、堀之内秀久ロサンゼルス総領事、ソーテル・ジャパンタウン協会のランディー・サカモト氏をはじめ、100人を超える支援者が集まった。
 戦前から同地に在住、当時6歳だったジューン・フジオカさんは戦争が勃発した際、持てるだけの荷物を抱えて一家でフレズノに避難した。しかし3カ月後、加州全域に日系人隔離命令が下され、アリゾナ州のヒラリバー強制収容所に収容された。戦後、ソーテル地区に戻ると、そこは荒野となっていたという。フジオカさんは、「差別がひどくて外食すらできなかった。どこへ行っても誹謗中傷され、癒しを求めてソーテル地区にとどまることが多かった」と当時を振り返った。
 戦時中、ユタ、コロラド、オクラホマ各州を転々としたハンク・イワモトさん一家は、収容所行きこそ免れたものの、石を投げられたり、自宅前の芝生に火を付けられるなど壮絶な経験をした。当時8歳だったイワモトさんは、「あの時が人生で一番辛い時期だった」と振り返る。46年にソーテル地区へ移住し、父親がグローサリーストア「Safe & Save Market」を開業。「オクラホマではどこへ行っても日系人は自分たちしかいなかったが、ソーテルではその状況が一転、日系人が皆で支え合い、生き抜いたのを覚えている」と話し、それら貴重な日系史が新名称ととに継承されることを喜んだ。
 約1マイルという小さな地域で肩を寄せ合い差別などの逆境を生き抜いた日系人たち。その絆は強く、全会一致で同案を可決した市議らは、その歴史に敬意を示し、可決から約1カ月という異例の早さでの標識設置となった。【中村良子、写真も】

ボニン市議(右端)から感謝状が手渡されるソーテル・ジャパンタウン協会のメンバーら
ボニン市議から感謝状が手渡されるソーテル・ジャパンタウン協会のメンバーら

Leave a comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *