小東京をはじめLA各地でレストランを経営する毘沙門グループ代表取締役の甲山貴明さん
小東京をはじめLA各地でレストランを経営する毘沙門グループ代表取締役の甲山貴明さん

毘沙門グループ代表取締役
甲山貴明さん

 小東京1街に行列のできるラーメン店「大黒家」はある。日本人だけでなく、店内はいつもさまざまな人種の客で賑わっている。オーナーで毘沙門グループ代表取締役の甲山貴明さんは同店のほか、日本料理店、洋食屋などを手掛け、現在当地で12店舗を経営している。今年1月には東京にも新たに1店舗をオープンした。甲山さんに、これまでの経営哲学や信条など話を聞いた。【取材=吉田純子】


ロサンゼルス行きを決意
行き着いたのは小東京

日系コミュニティーのイベントにも積極的に参加。昨年の「春・歌まつり」でも歌声を披露した
日系コミュニティーのイベントにも積極的に参加。昨年の「春・歌まつり」でも歌声を披露した
 「日本から出たことがなかった。行くと決めたらロサンゼルスしか思いつかなかった」。甲山さんは1988年にLAにやってきた。実家は八王子にあり、米軍横田基地が近かったことから、アルバイト感覚で米国人に日本の壷やコインを売る手伝いなどをしていた。米国という存在は常に身近にあったという。
 19歳から5年間飲食店で働き、そこでの仕事に区切りがついた24歳の時、「海外はどんなところなんだろう」。突然の思いつきから米国行きを決意した。何が出来るか分からない。しかしすぐに帰るつもりはなかった。荷物ひとつで日本を飛び出し米国へと向かった。
 LAに到着した次の日には職探しをしていた。どこに行けばいいのか分からず、最初に行き着いた先が小東京だった。知り合いと落ち合い、日本食レストランでの職を紹介してもらった。甲山さんの米国での人生はこうして始まった。
 泊まるところもなく、最初の給料がでるまでは店のオーナー宅に住み込みで働かせてもらい、独立するまでの5年間働いた。93年に、当時のオーナーから店を引き継ぎ、自身がオーナーとして店をオープンさせたのが30歳の時。「飲食業は日本でも米国でもしましたが、オーナーになってからはすべてが手探りでした」。コビナに今もある同氏の1号店は「Bishamon」と名付けた。
 甲山さんのレストランにはインパクトのある店名が多い。「EBISU」、「大黒屋」、「多聞」。「上杉謙信が好きなんです。彼は自らのことを毘沙門天の生まれ変わりだと例えていました。店の名前には謙信が由来になっているのです」
 毘沙門天は七福神のひとつでもある。ほかの店舗も七福神にあやかりネーミングを考えた。「多聞も毘沙門の別名なんです」

最初の店が火事に
「ここでやめられない」

 順風満帆ではなかった。最初の店を開店し4年目に火事が発生した。軌道にのり始めた矢先の出来事だった。建物が100年以上経っており、損傷が激しく、修復に時間がかかった。
 誰もが諦めかけていた。当時はその1店舗しか店はなく、ほかに出来ることがなかった。再建に向けて頑張るしか道は残されていなかったのだ。
 「事故で辞めるなんて諦めがつかない」。常連客や従業員の姿が目に浮かび「ここでやめられない」という思いが日増しに強くなっていった。
 「最初はみんな手伝ってくれましたが、資金の問題もあり、最後の方には自分でトンカチを持って直していたほどです」
 1年の歳月の後、ついに復活の時はやってきた。1年間、ほかの仕事に就いていた従業員たちも再オープンと同時に戻ってきてくれた。「自分自身、もう無理なのかなと思っていました。そんな中、みんなが戻って来てくれた時は本当に嬉しかったです」

大黒家のヒット
ラーメンブームの到来

 2002年に小東京にラーメン店「大黒家」をオープンした時の甲山さん

2002年に小東京にラーメン店「大黒家」をオープンした時の甲山さん
 2002年には小東京にラーメン店「大黒家」をオープンした。建物が古く、資金もなかったため、改装費はかけられなかったが、逆にそうした古さを演出に使えないかと思った。「この古いイメージは寿司屋ではなく断然ラーメン屋の方が適していました」
 日本でホーロー看板や昭和らしいアイテムを買ってきて、小東京らしい内装にした。「小東京で斬新なニュースタイルの店を提案するよりも、昔の雰囲気をそのままに、昔ながらのラーメン文化を知ってもらいたかったのです」
 当時、米国人のラーメンに対する知識は今とまったく違った。スーパーに行けばカップラーメンが数十セントで売られていた時代。米国人にとってラーメンとはカップラーメンのことだった。「なぜラーメンにこんなにお金を出さないといけないのか」。そう思う人がほとんど。ラーメンを知っている人、食べ方を知っている人は少なかった。
 しかし好機が訪れる。同店をオープンした2000年初頭からインターネットの普及により、ブログなどのソーシャルメディアが流行り始めた。感想をブログに書く人が増え、「ラーメンってどんなものだろう」と来店する人が増えていった。「ブームを狙ってはいませんでした。たまたま到来した時代の流れにうまくぶつかったのです」。以降、大黒家の評判は瞬く間に広まっていった。

「人間として正しい道」
米国で培った経営哲学

 ビジネスにおいて成功は利益をあげること。しかし甲山さんに、「勝てば官軍」という考え方はない。「たとえ負けても自分が納得し、正しいことが出来たがどうかが大事」と力を込める。
 これまでにも負けはいくつも経験してきた。「ビジネスマンとしては自分は失格かもしれません。たくさん損をしてきました。でもビジネスとして正しいことを選ぶのか、損をしてでも人間として正しい道を選ぶのか。自分だったら絶対に後者を選びます」。この思いが経営哲学となっている。

「日本人による日本人街を」
日系社会のイベントにも参加

 江戸千家ロサンゼルス不白会の茶会に出席し茶を味わう甲山さん

江戸千家ロサンゼルス不白会の茶会に出席し茶を味わう甲山さん
 「日本人街であるのに、日本人以外の人が商売を始めることが多くなりました。決してそれが悪い訳ではありません。しかし進んでしまうと日本人もいなくなり、日本人街らしさがなくなってしまう」。日本人街なのだから、日本人が日本人街らしい商売をしてほしいとの思いがある。小東京で商売を始めてしまったが故に、その思いは日増しに強くなっていった。
 そんな甲山さんは日系コミュニティーのイベントにも積極的に参加している。江戸千家ロサンゼルス不白会の茶会では静寂な雰囲気の中、心の平安を養い精神のバランスを整えている。歌謡チャリティーショー「春・歌まつり」や小東京新春恒例の「米国版紅白歌合戦」では歌手として出場、その歌声を披露している。二世週祭では仲間たちと神輿を担ぎ、小東京に熱気を届け、祭りを盛り上げる。熱き大和魂を胸に秘め、今日も甲山さんは小東京を駆け巡る。

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