オレンジ郡ファンテンバレーに米国初の工場が完成し、国内での製造販売を開始したヤクルトUSA社の清水社長(前列右から2人目)社員たち
オレンジ郡ファンテンバレーに米国初の工場が完成し、国内での製造販売を開始したヤクルトUSA社の清水社長(前列右から2人目)と社員たち
ヤクルトUSA代表取締役社長
清水実千男さん

 昨年5月にオレンジ郡ファンテンバレーに米国初の工場が完成し、国内での製造販売を開始したヤクルトUSA社。2011年5月に同社代表取締役社長に就任した清水実千男さんに、ヤクルト製品との出会いや仕事に懸ける情熱など話を聞いた。【取材=吉田純子】

オ郡の工場が起動
米国での製造を開始

ヤクルトUSA社代表取締役社長の清水実千男さん(ヤクルト社提供)
ヤクルトUSA社代表取締役社長の清水実千男さん(ヤクルト社提供)
 米国法人は1990年に始まり、同工場ができるまで、メキシコ工場で製造した商品を米国に輸入し販売していた。西海岸を中心に展開しているため、立地の良さからファンテンバレーに工場を設置した。
 以前はトーレンスにオフィスがあったが、13年9月にオレンジ郡ファンテンバレーに移転。マーケティングと販売のみ行っていたが、昨年5月に工場を竣工し、製造販売拠点として新たにスタートした。工場で生産に携わっている従業員は50人ほど。テキサス、コロラドにも営業所があり、ヤクルトUSA全体では100人ほどが働いている。
 テキサスより東では日系、アジア系のみの展開となっている。東海岸でも会員制量販店「COSTCO」や米系大手スーパーマーケットからもオファーはくるが、物流や営業所の設立、従業員の人員配置など実際は取扱いが困難なのが現状だ。一方、テキサスより西は米系のスーパーマーケットにも販売規模を拡大。「まずは西海岸で認知度を上げてからの挑戦です」と清水社長は話す。

米国の健康志向の人にも
予防医学から生まれた飲料

 米国では健康への意識が高い人が多いため、従来の商品よりカロリーを約30%カットした「ヤクルトライト」も販売。人工甘味料を避けたい消費者のために天然甘味料のステビアを使用している。
 「ヤクルトは乳酸菌の『ヤクルト菌』を飲んでもらうための商品。お腹の健康維持のため、予防医学から生まれました」
 本来、乳酸菌は酸を出すため原液は酸っぱくて飲めない。脱脂粉乳(スキムミルクパウダー)と水、砂糖を加え、同社が独自に開発した「シロタ菌」という乳酸菌を加え飲みやすくしたのがヤクルトだ。
 同社創設者で医学博士・代田稔氏が発見した「ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株」がヤクルトの源。赤痢などで亡くなる子どもが多かった1930年当時、栄養を吸収する腸をまず健康にすることに着目した同氏は、生きたまま腸に届く乳酸菌を発見し、培養に成功した。
 その後、乳酸菌飲料として商品化し、同氏に賛同した有志たちが、家庭に届けて回ったのがヤクルトの販売員「ヤクルトレディ」の原点。「当初はヤクルトレディではなく、ヤクルトおじさんだったのです」
 米国ではスーパーの店頭や屋外イベント、健康フェアなどで試飲サンプルを配り販売している。米国人からは「なんで菌を飲むの?」とよく質問されるという。病気になったら薬を飲めばいいという考え方の米国では予防医学の概念がない。まず理解してもらうことに一苦労だ。
 ヤクルト社の最初の海外進出は台湾から。その後、中南米や東南アジア、ヨーロッパ、米国と続いた。メキシコやブラジルでは「ヤクルトレディ」のシステムも起用し、業績もいいという。訪問販売を行っていないのは米国とオーストラリア、ヨーロッパだ。国土の広さ、安全面を考慮し、1軒ずつまわる訪問販売は行っていない。


こどもの頃に命拾い
販売員たちを大会に

 出身は鹿児島県霧島市。1977年にヤクルトに入社した。ヤクルトとの出会いは小学生の頃までさかのぼる。当時、キンカンの食べ過ぎで胃の中が発酵し、1日ほど意識不明になったことがあった。腸で止まってしまったキンカンを出すため、当時ヤクルトレディだった母が近所のヤクルト工場まで飛んでいき、乳酸菌の原液をもらって口の中にふくませ命拾いしたことがあった。
 「意識がありませんでしたからその時の様子は分からないのですが、医師が浣腸をしても治らなかったらしいのです」。命拾いをした会社にその何十年後に就職することになろうとは当時想像もしなかった。
 入社後4年間は本社子会社の販売マーケティング会社「武蔵野ヤクルト」でヤクルトレディをとりまとめる業務に従事した。営業所24センター中、売り上げ順位が20位、19位のセンターの担当に。業績が悪かったため本社社員として建て直しに入ったのだ。同社では売り上げ成績上位3センターを表彰する大会があり、何としても東京地区大会に販売員を連れていきたかった。
 まず実行したのがローラー作戦。受け持ち地区を5分割し、徹底的に顧客獲得運動に打って出た。これが成功し目標を達成。2位に選ばれたのだ。「念願の大会に出て、販売員さんが表彰台に上った時はもう涙がボロボロでました。頑張っている姿をいつも見ていましたから。1回でも成功体験があると人は変わります。しかしそれがないと仕事の楽しさ、喜びなど醍醐味を味わえないままになってしまうのです」
 清水社長が社員を鍛える時、いつも伝えるのは「思ったことは実行する」ということ。「微差は大差。部下には常に『良いと思ったことは、実行しろ』と言っているのです。ただ経営となると資金力や効率も含め判断しなければならないところが難しいのです」

「花日和」の思い出
鍛え抜かれた後の涙

 清水社長はその後、本社直販部に戻り、当時急成長を遂げていたイトーヨーカドーやダイエーなど大型量販店を担当するチェーンストア課に配属になり、コンビニエンスストアのセブンイレブンの担当になった。「当時セブンイレブンは急成長を遂げており、取り引きしていたバイヤーさんからはもう本当にしごかれました」
 毎日バイヤーに怒鳴られる厳しい現場を7年耐え抜いた後、関東支店への異動が決まった。忘れもしない92年4月1日。バイヤーの元にあいさつに行くと、当時セブンイレブン常務で後に代表取締役社長となる工藤健氏に呼び止められた。異動の旨を伝えると工藤氏は机にあったメモ用紙に何かを書き始めた。渡された走り書きを見るなり目から涙が溢れ出た。「花日和、感謝、感謝の別れかな―」

当時セブンイレブン常務で後に代表取締役社長となる工藤健氏からの走り書きを今も大切に保管し眺める清水社長
当時セブンイレブン常務で後に代表取締役社長となる工藤健氏からの走り書きを今も大切に保管し眺める清水社長
 「本当に厳しい現場で、バイヤーからはいつも『何しにきたの』と怒鳴られながらも毎日足しげく通っていたのです。そんな姿を見てくれていたのですね。『君は本当によくやってくれたよ』とこの走り書きをくれたのです」。清水社長は今も大切にこのメモ用紙を持ち歩いている。
 その後は日本国内販売事業だけでなく、2001年にはシンガポールで初の海外勤務、現地社長を経て現在に至る。「母もヤクルトおばさん。ヤクルトに助けられ、不思議なご縁で入社し、それからずっと今まで『健康』という人の役に立つ仕事をさせてもらっています」

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