「馬術のバロン・ニシ、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」。フェンス越しにコロシアムを眺めていると、83年前の夏、ちょうどこの場所で喝采を浴びた男への歓喜の声が耳の奥に鳴り響いてくるようだった。
1932年8月14日、8万7千人の観衆が見守る中、男とその愛馬は現れた。LAで開催された夏季オリンピック最終日、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムには満場の観衆の熱気が立ちこめていた。大会最後を飾るのは勝てば「英雄」と称された馬術障害飛越。一目惚れした愛馬ウラヌスにまたがり「バロン・ニシ」こと西竹一陸軍中尉(当時)は優勝候補の米国をはじめ、各国の強豪を抑えて金メダルを獲得した。
翌日の米紙にはその快挙が写真付きで報じられ、LA市からは名誉市民の称号も授与された。男爵であり英語が堪能。洗練された身のこなしと明るい性格から、銀幕スターとも親交を持つほどLA社交界で人気者となる。
しかし太平洋戦争が勃発。冒頭の台詞は硫黄島へと送られた「バロン・ニシ」の活躍を惜しむ米軍からの降伏勧告とされている。戦没者の遺品などを展示する東京にある遊就館の資料によると、西は呼び掛けには応じず玉砕したという。
もうひとり、LA五輪に出場し、硫黄島で散った男子水泳銀メダリストの河石達吾も忘れてはならない。LA五輪から12年後、2人のメダリストが同じ場所で帰らぬ人となった。2人の死から70回目の夏を迎えた今月12日、LAが2024年五輪の開催都市に立候補する見通しと発表された。実現すれば32年、84年に続き3度目の開催となる。
硫黄島へと赴く前、西は五輪の舞台で共に戦ったウラヌスに会いに行っている。そしてたてがみを切り取り胸にしまった。彼は死ぬまでそのたてがみを離さなかったという。西の死から1週間後、ウラヌスも後を追うようにして息を引きとった。
70年前、戦争がLA五輪で輝いた選手のその後の運命を翻弄した。しかしこれからの未来はそうであってほしくない。【吉田純子】