11月中旬、秋深まる群馬・月夜野で数日を過ごした。
 昔、村の名主さまが住んでいたという蔵付き、隠居用離れ座敷付きの、ドでかい民家に泊めてもらった。知人のH氏が買い取り、改築し、「別宅」として週末、利用している。
 H氏は隣接する800坪(0・65エーカー)の畑で野菜を栽培している。採れた白菜や大根を漬物にしたり、鍋物の食材にして「自給自足」している。
 夜ともなれば、ご近所の村人たちがやってくる。地酒や採りたてのリンゴや野菜を持参してくる。囲炉裏にかけた鍋を皆でつつきながら、「日本とアメリカ」について夜が更けるまで語り合った。
 地元の人専用の「村営温泉」にも行った。狭くて、素朴すぎて、温泉というよりも銭湯といった感じだった。入湯料は100円。
 「あんた、どこね」。手拭いを頭にのせた初老の男性が話しかけてきた。LAから来たというと、目を丸くして、「なんしに、来たね」。「今年しゃ、コメが豊作で、ひと安心よ」と、白い歯を見せた。
 翌日、130年続いているという「尻高(しったか)人形」を見た。隣村の室内ゲートボール場には100人近くの人たちが集まっていた。
 義太夫節の演奏に合わせて、村人が人形浄瑠璃「伽羅千代萩 政岡忠義の段(めいぼくせんだいはぎ まさおかちゅうぎのだん)」や「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)を熱演した。小学生たちもみごとな人形さばきを披露した。
 題目が一つ終わるごとに、底冷えする会場に村人の熱気あふれる拍手喝采が響き渡った。
 明治19年(1886年)、名古屋の浄瑠璃師がこの村にやってきて人形の使い方を教えたのが始まりだという。1978年には文化庁から「無形民俗文化財」に選定されている。2002年には群馬県文化使節としてモンゴルにまで出かけ、公演している。村の誇りだ。
 メディアが「過疎地」とひと言で片づける日本の農村。だが、そこにはどっしりと根づいた、古き良き日本人の営みが息づいていた。【高濱 賛】

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