先日、日本語の古本屋に行って驚いた。全米に9店舗を展開する日本の大手の支店だ。かつては広い店舗にぎっしりと古本が並び、格安の値段が魅力だった。隙間時間に冷やかしに立ち寄ったものだ。ところが今、店舗の3分の2を占めるのは、DVD、PC備品、楽器の類で本は片隅に追いやられている。これではセコンドハンドの雑貨店と大差はない。店内を流れるアナウンスも日本語ではなく英語。片隅の本は流通が滞っているとみえ、大層古いもので、とても手にする気にはならなかった。
出版産業の不況、本屋の閉店、本が売れなくなった現況は知っているつもりであったが目前に突きつけられ、さすがに物悲しい風景に見えた。本が雑貨に駆逐されている。
知識を増やすのは、紙の本しかなかった時代の人間としては、何でもグーグルで調べ簡単に情報が得られる現代の子供たちを羨ましく思う。その半面、過剰な情報に翻弄され、知っているつもりの弊害もある。時間をかけ、深く思考する習慣、その基本を失いつつある危うさも感じる。問題の本質は何なのか、掘り下げなくていいのかと不安になる。
1冊の本の中に盛り込まれた知識は相当な量である。時には一人の人間が費やした一生分の思考や経験のエキスが詰め込まれてもいる。本を読むということはその人の一生の時間と魂を分けてもらうことでもある。だから本は貴重なものだ。
売れる本ばかりに走り、いい本を出版社が出さなくなった、という批判も聞く。しかし本を売って利益を出すビジネスだから売れない本は価値がないと言われればそれまでだ。
本の売り上げの6割は出版社が取り、著者には1割、残りが書店の取り分らしい。書店の生き残りは厳しい。出版社の取り分は多いようだが、広告費の負担がある。
出版社はベストセラーで利益を得、それを新人作家や才能を掘り出し世に問う資金にする。本当に出したい本がそれで出せる。
だから紙の本の存続を願うなら、たった1冊でも実際に本を買うことで私たちも協力できる。紙の新聞を取り続けるように。
【萩野千鶴子】