郊外に住む友人から「小堺さんが日本から来て蕎麦を打ってくれるんだけど、食べにおいで」と誘いがかかった。
 幸いなことに仕事の予定はゼロ、美食家ではないが食い意地は人一倍、ましてや小堺さんの手打ちの蕎麦がシカゴに居て食べられるなんて、宝くじに当たったようなものである。
 二つ返事で45分をドライブして参上。
 鎌倉は八幡宮の参道に蕎麦処「こ寿々」を経営する小堺さんは、30数年前までは貿易会社に勤める企業戦士だった。
 働き盛りを昼夜の別なく仕事に邁進していたある日、エリート社員は胃の異常に気がついた。考えた末に退職して、行きつけの蕎麦屋の主人に弟子入りと、このあたりが小堺さんの変わっているところ。蕎麦打ちをマスターしていざ店を開けようと思ったときに、蕎麦打ちの師匠が店を閉店すると言い出し、厨房の器材一式を買い取って「こ寿々」をオープンした。
 彼の蕎麦に対するこだわりは半端ではない。そば粉は契約農家が産地で挽かせた新鮮なものを一日おきに、忙しくなると毎日取り寄せる。何より新鮮な蕎麦の香りと質を大切にするからだ。
 話をしながらも麺棒の手は休めず、5センチほども高さのあったそば粉の塊はまるで魔法に掛かったように2ミリ足らずの紙のようにのばされ、円形だったものがいつしか四角に変形した。
 小堺さんは薄く延ばされた蕎麦をまるで赤ん坊を扱うようにやさしく折り畳み、大きな蕎麦きり包丁でリズムをつけてトントンと切ってゆく。
 包丁の端から現れる蕎麦の一本一本がまるで計ったように同じ幅。切るくらいならと、柄に鮫の皮を巻いた包丁を借りて私が切った蕎麦の幅はきしめんかうどんクラス。落第でした。
 シカゴの友人に美味しい蕎麦を食べさせようと、食材と道具一式を日本から持参してくれた小堺さんに感謝しつつ、茹で上がって氷水でキュッと身を引き締めた透明感のある蕎麦を、丸みのある汁に、おろしたての山葵(わさび)をちょっと利かせてつるりと喉に落とす。
 至福…。【川口加代子】

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