長男の大学の卒業式が東京であり、校内にある大隈重信像の前で記念写真を撮りました。大隈重信は宣教師から英語とアメリカ独立宣言を学び、その思考に大きな影響を受けることで、当時の将軍である徳川慶喜に大政奉還を勧めました。そして江戸から明治へと日本が動いていくのです。常に世界に学び実践していく、息子にもそんな大志をいだいてほしいと願っていたところ、大隈重信像を制作したのは、東洋のロダンといわれた朝倉文夫という彫刻家であることを知りました。そして都民の日に販売されたバッジのデザインをした最初の人でもありました。もちろん血縁はありませんが、大隈重信の改革独立の精神と、自治を意識するために設定された都民の日のシンボルの意味が私の中で重なりました。
 東京府が東京市を兼ねて治めていた明治初期は、東京市の独立した自治ができませんでした。1898年10月1日に市制特例が廃止され、東京市は市長を持つ市となり、はじめて東京での自治がスタートしたのです。これを記念し1952年から、毎年10月1日が都民の日になりました。
 1960年代から90年代にかけて東京に住んでいた方はご存知だと思いますが、毎年デザインが変更されるカッパのバッジが売られていました。このバッジを胸に付けていると遊園地やバスの無料利用ができたのです。都民の日には学校が休みになり、バスや遊園地などが無料で利用できたことを覚えている方も多いと思います。今では、カッパのバッジは売られていませんが、東京都の庭園などに無料入場できる日になっています。都の住民でなくても誰もが、指定の施設で無料入場できる日となっています。
 では、なぜカッパなのかと言いますと、東京にはかつて「隅田川にカッパの巣が多くあり、水害の時には隅田川にたくさんの橋をかけてくれた」という伝承がありました。かっぱ橋などの地名にもあるように、カッパは水難防除の神様としてだけでなくその頃の都民に親しまれていました。都民の日は、カッパと人間が心の中で会える日だったのかもしれません。カッパと共存できた昭和の時代に思いをはせました。【朝倉巨瑞】

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