私財投げ売り、移民運動
「日米両国への恩返し」願う
内田さん
内田さんは53年、派米農業実習生として初渡米した。大規模で機械化された世界最先端の農業技術と農民の豊かな暮らし、広大な大地、米国人の心の広さに胸を打たれると戦後、貧窮にあえぐ鹿児島の若者をどうにかして米国に呼び寄せよう、と私財を投げ売って移民運動に没頭したが、日本人移民は24年に施行された通称「排日移民法」の壁に阻まれてい
内田さんは入植した加州北部のサリナスで、鹿児島移住者と協力して切り花の生産に乗り出し、大きな成功を収めた。故郷鹿児島と平和を愛し、ビジネスの成功を還元して日米親善に尽し、両国2件の姉妹都市提携を取り持った。
世話した鹿児島移民との最後の対面は、2006年の北米移住50周年の記念式典だった。病気を押して参加したスピーチでは、移民運動を始めたきっかけを、ニューギニア戦線で戦友を失ったことと説明。2世と若い3世へ向け「平和を尊んで、『平和の天使』になって、日本とアメリカのための活動をして、両国に恩返しをしてもらいたい」と、後を託したその2カ月後に息を引き取った。
鹿児島から希望を胸に渡米
裸一貫からの若者333人
難民救済法を利用した2年間で、鹿児島から平均20代半ばという若者333人が希望を胸に単身、海を渡った。所持金はわずか、身寄りは誰一人いない。まさに、裸一貫からの船出だった。
2、3年という農場との契約が済むと、大学で学位を取得したり、農作業の経験を生かした庭園・造園業に就き、その後独立し成功を収めた。妻や子供、親戚、花嫁を呼び寄せ、車を持ち家を建て、米国での地盤を固めた。子女教育には特に力を入れ、多くを医者や弁護士、エンジニア、建築士などに立派に育て上げたことを誇りとする。現在、4世までの鹿児島系移住者家族は、1万人に上るという。
2世と3世、1世に敬意
移民史継承と日米に恩返し
60周年の記念式典には、各世代がほぼ3分の1ずつ揃い、1世は大喜びした。入植後の歩みを内田さんが撮影した映像で振り返り、所属した農園での作業風景や、家族を呼び寄せた船上の様子が紹介された。1世の黒くフサフサした髪の毛に若い顔だち、そして幼い2世の愛くるしい姿を見て、当時を懐かしんでいた。岸田文雄・外務大臣と三反園訓・鹿児島県知事の祝電や、郷土民謡おはら節などが披露され、祝典に花を添えた。
2世の4人は、両親が身を粉にして働く姿を見て育ち、教えられた「ガマン」や「サツマ・スピリット」「鹿児島新移民の子孫としての誇り」などを「カゴシマ・レガシー」として継承していることを紹介。ジャネット永峰さんは「それぞれの鹿児島系家族には、後世に伝えるストーリーがある」とし、2世主導による難民移民の記録と伝承の重要性を力説。「子どもたちと孫たちに語り継がなければ、記録は永遠に消滅してしまう。今から始めよう」と訴えた。
3人の3世は、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がられた思い出はもとより、鹿児島ファンデーションの次世代育英制度の研修生として祖父母の故郷を訪れ、親戚に初めて会ったり、先祖の墓参りをし、自身のルーツを確認したことなどを披露した。それぞれがアイデンティティーを強調し、大きな拍手が送られた。
55年移住組の1人の宮内武幸さんは、乾杯の音頭を取ったあいさつで「孫娘が日本政府が招へいするプログラム(JET)に参加している」と胸を張った。「日本で英語を指導していて、こんなにありがたいことはない。最高の人生だ」と熱弁をふるい、敬愛する天国の内田さんに捧げた。
閉会の辞を、内田さんの長男で、新鹿児島移住者の代表を務める誠一郎さんが述べ、「移民運動のレガシーを受け継いで、われわれの日米両国に恩返しをしたい」と意欲を示した。2世、3世に対しては「日系アメリカ人として、日米の絆を強めるための軸となり、『平和の天使』になってもらいたい」と願い「このレガシーを子どもたちに伝える活動は、今日から始まる。連絡を取り合って、また会おう」と、締めくくった。
内田誠一郎さんは、1世が期待する難民移民史の継承に応える意思を持ち「この60周年記念が、2世と3世をつなぐ新しい歴史の始まり。1世のパイオニアに敬意を払い、大和魂と薩摩魂を受け継ぎたい」と、抱負を述べた。
内田さんが60年前に撒いた種は、1世が新天地の大地を懸命に耕し、模範的な米国市民に育てた2世、3世、そして4世が、日米の懸け橋となって実を結んでいる。