日系人を顧客にポートレートや家族写真、結婚写真、七五三、葬儀、各種コミュニティー行事を撮り、約70年にわたり活動。また、変遷する小東京の町並みを写し、作品を提供することで日系史の記録、保存に寄与した。マンザナ収容所跡地を国立公園局の史跡にする活動に、妻タケさんとともに尽力した。
戦後に復刊した羅府新報では、オフィシャル・フォトグラファーとして活躍した。二世週祭では、撮影のみならず、実行委員として支え、委員長を1年務めた。2005年には同祭のグランドマーシャルに選出された。
日米文化会館の小阪博一アートディレクターは、5度ほど催したミヤタケ父子の写真展のキューレーションをし、アーチーさんとは一緒に講演会で話したり、映画を作ったりしたといい「きちんとした性格で、責任感が強かった。日本人のきめ細かさが、作品に表れていた」と話した。訃報について「1人のカメラマンではなく、リトル東京の代表という感じだった。コミュニティーの大きな財産をなくした」と悼んだ。