忘却とは忘れ去ることなり 忘れ得ずして忘却を誓う心の哀しさよ—
放送時間になると女湯が空になったといわれ、昭和の一時期を風靡したラジオドラマ「君の名は」の有名なナレーションを覚えている人の年齢はだいたい想像がつく。
そして今、その世代の多くが忘却などというしゃれた(?)言葉ではなく、いわゆる「物忘れ」と格闘している。
冷蔵庫の前まで来て、何を出そうとしていたのか忘れ、買い物に行って必要なものを買い忘れ、余計なものを買って帰る。忘れないために書いておいたメモを置き忘れる。やらなければならないことをやろうと行動に移した途端に電話のベルがなったり、誰かに話しかけられて肝心のことを忘れる。確かここに置いたはずの鍵、小切手、書類、入れ物の蓋が突然姿を消す。
このような場合、探し物に費やす時間はばかにならないし、自分自身イライラして精神衛生上よくないが、他人に及ぼす被害は少ない。これがドクターの予約、ミーティング、友人との約束事や締め切りのあるものになるとそうはいかない。自分以外の人に迷惑をかけ、プロジェクトの進行を妨げ、謝るだけではすまない場合も出てくるだろう。へたをすると「大分認知症が進んでいるらしい」などと陰口を叩かれる。
物忘れはしないほうが良いにきまっているが、忘れたほうがよいこともある。
親友に裏切られて「この恨みは一生忘れない」などと言ってみたところで、裏切ったほうは自分の仕業などとうに忘れ、憎しみに心を占領されている被害者のほうが、恨みにがんじがらめにされて苦しむことが多いようだ。
恨みや憎しみを忘れることは心の傷を癒す特効薬であり、そこから人間がひとまわりもふたまわりも大きくなる。
中には打たれ強い性格で、「あの時の恨み、憎しみが頑張りのバネになって今日の成功がある」などと言う人もあるから一概には言えないが、忘れないまでも許せる心の広さが自分の気持ちを楽にする。
このコラムの原稿締め切り日を忘れると紙面に穴を開け、編集長に迷惑をかけてしまう。
「はい、よぉ〜く分かっております」【川口加代子】