リトル東京の禅宗寺で行われた茶筅供養の茶会に出かけた。お抹茶と点心を楽しませていただいた。茶席の楽しみはそれだけではなく、お軸やお花、お道具を拝見することにもある。今回の茶席で出会ったお軸は「今の一当は 昔の百不当の力なり」と「閑坐聴松風」。茶会の前の茶筅供養法要で、このお軸の説明が小島先生からあった。
 「今の一当…」は今ある成功は昔の百・千の失敗の上にあるもの。当たり前にできたと思ったことは幾多の失敗の上にある。「有り難う」の反対は「当たり前」だともおっしゃった。当然あることと、あることがまれ、なかなかありそうもないこととは対をなしている。当たり前と思っているところに感謝はない。「閑坐…」は、静かに座って松風を聴く。松風はお茶を点てるときの茶釜の煮えたつ音、仏様の声を聴くとも。普段静かに坐って松風が聞こえるような静寂の中にいることはまずない。常に辺りは機械音に囲まれている。
 お茶は、ある意味非日常で、あの狭い空間は華美ではない花と、場にふさわしいお軸、趣向を凝らした道具の数々が静寂の中にあって、心地よい緊張と贅沢を感じる場である。
 当たり前といえば、先頃、知人が住む建物のエレベーターが4週間近く故障したままだったと聞いた。久しぶりに顔を見て安心するとともに、少し老いたかな? と思った。当たり前に動くエレベーターがあるから、ウォーカーを使う知人はそこに住んでいられた。ところが、故障すると外出が困難になる。外部との接触が断たれる。高齢者にとって、外部からの刺激、人との接触がなくなる、運動量の低下は体のあらゆるところの機能低下につながるように見えた。階段を容易に使える人だけを住まわせているのではない建物で、エレベーターが動くのが当たり前と思ってはいけないのだろうか。
 日常の中で忘れていることを気づかされる機会をいただいた茶会だった。お茶を習えば学びが多いのだろうが、ただいただくのが好きで茶会の機会があれば末席をけがしている。いつもおいしいお茶を頂戴している身には、お茶はおいしくてあたりまえ、有り難いことです。【大石克子】

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