「8月ジャーナリズム」と揶揄されることもあるけれど、せめて夏だけは新聞やテレビを通して過去の戦争について思いを馳せて、何気ない日常が奪われてしまうことがどういうことか想像したい。
そんな今年の夏、ある友人のことが気にかかっている。彼はこの時期毎年特集される広島の原爆投下にまつわる記事を読むことができない。読むと辛かった過去を思い出して、頭痛がしたり体が硬直したりするという。被爆者でもその遺族というわけでもない。
かつて広島に勤務していた記者だった。希望の赴任地でやる気に満ちていたが、先輩や上司からの陰湿ないじめやパワハラに遭い、戦争や平和に関する第一線で取材する機会が奪われてしまった。
それだけではない。完全に心の平和も奪われてしまった。「死ね」「自殺か辞めるか選べ」という言葉を浴びせられ、心と体の健康を失い、記者を辞めざるを得なくなった。幸い命を落とすには至らなかったが、今もその時のトラウマと戦っている。
パワハラへの社会的関心がより低かった時代だったかもしれないが、それを大々的に報道しているマスコミ業界でも対応が遅れていることが往々にしてある。
しかし皮肉なことに、彼の平和を奪った先輩記者やデスクたちが、この夏も原爆や核軍縮、世界平和について語っているのである。
「平和担当が利権化している」と彼は問題提起する。地位や名誉への欲が強く、むしろ「取材される側がかわいそうだ」と。そういった人たちは社内で評価され昇進していくのだという。
今年で戦後74年。被爆者や戦争体験者に話を聞ける機会はますます少なくなっている。彼らの思いを受け継ぎ、2度と同じ戦争が起きないよう伝え続けることがメディアの大切な役割の一つである。かつてメディアは国家や軍に利用され戦争に加担した歴史もある。だからこそ余計に抑止力とならなければならない。
しかし、名誉や権威に踊らされ、身近な職場の仲間のことすら大切にすることも想像することもできなければ、その役割を担うことなんてできない。そんな人たちが、どうして被爆者やその家族にまで思いを寄せることができるのだろうか。そもそも戦争や平和を語る資格などないように感じる。【中西奈緒】