ピクニック参加者が集まり記念撮影

 南加福島県人会(熊田るみ会長)は1日、トーレンス公園で毎年恒例の夏のピクニックを開催した。同会のメンバーである第442連隊戦闘団(以下442連隊)と陸軍情報部(MIS)の退役軍人も出席。今年6月にカリフォルニア州北部で行われた北米最初の日系移民入植150年を記念した式典「若松フェスティバル150」に参加したメンバーからの報告会もあり、同郷の英雄をたたえるとともに、故郷の歴史を振り返るピクニックとなった。【吉田純子、写真も】

 先人への黙とうが捧げられた後、ピクニックは始まった。東北地方の方言「ズーズー弁」のパンチの効いたラジオ体操の後、メンバーが焼いた出来立てのバーベキューが振る舞われた。昼食の後は音楽演奏のほか、子どもたちも参加し水リレーも行われ、メンバーは親睦を深めた。
 福島県出身でライスキングと呼ばれた故国府田敬三郎氏の遺言で、毎年ピクニックでは国府田ファームからもち米が寄付される。今年は80パウンドが届き、もち米で作った赤飯が参加者に配られた。
 今年のピクニックにはおよそ80人が出席。参加者の中には、今年の二世週祭のパレードにオープンカーに乗って登場した442連隊の退役軍人ドン・セキさん(97)、442連隊とMIS所属の退役軍人ポール・バンナイさん(99)、パイオニア賞受賞者のひとり小山信吉さん(85)の姿があった。
 セキさんは両親が福島県伊達郡生まれの日系2世。ハワイで生まれ、真珠湾攻撃の後、軍隊に志願し442連隊に所属した。戦時中に受けた銃撃で左腕を失った。
 ピクニックには娘のステイシーさんと今年初めて参加。ラジオ体操も最後まで元気にこなし、「福島の人々と会えて素晴らしい」と話していた。

娘のステイシーさん(左)と今年初めてピクニックに参加した442連隊の退役軍人ドン・セキさん
 バンナイさんは両親が会津若松生まれの日系2世。コロラド州で生まれ、両親は農業に従事。戦前にボイルハイツに移り、開戦後はマンザナー強制収容所に収容され、442連隊に加わった後、MISに所属。戦後はガーデナ市議や、カリフォルニア州議員を歴任し、レーガン政権時には退役軍人省の長官も務めた。ピクニックには息子、娘家族と共に参加。趣味のカメラを持参し、同郷の人々との夏の思い出を記録していた。

442連隊とMISの退役軍人でレーガン政権時には退役軍人省の長官も務めたバンナイさん(前列)。ピクニックには家族と参加した
 
 

「若松フェスティバル150」の式典の模様を報告する小山さん
小山さんは6月に行われ、同県人会のメンバー数人も参加した「若松フェスティバル150」の式典の模様をメンバーらに報告した。
 戊辰戦争後の1869年、会津若松藩主・松平容保の軍事顧問だったプロイセン人ヘンリー・シュネルに率いられ、旧会津藩の人々などから成る移民団は新天地を求め加州北部ゴールドヒルに入植地「若松コロニー」を形成した。茶と絹の栽培を試みたが、水質汚染や資金難などの理由から、はかなくもコロニーは2年で崩壊。跡地にはコロニーのメンバーで北米で最初に亡くなったとされる日本人女性「おけい」の墓が今なお大切に保存されている。式典には日本から会津松平家15代目の松平親保さんも出席した。
 小山さんは若松コロニーの歴史なども説明し、メンバーは先人がたどった数奇な運命に思いを馳せた。
 同県人会は今年4月に内国歳入庁(IRS)から非営利団体として認可され、今後も米国内における環境保全や東日本大震災後の福島県への支援を継続していくという。

環境問題への配慮から昨年、同県人会のロゴ入りのストロー付きタンブラーを考案した熊田会長
 熊田会長は「みなさんからの寄付金だけに頼るのではなく、自分たちで物を作り、その収益を被災地などに届けられたらと思う」と意気込む。
 これまでにも福島県で仕入れた会津木綿の生地を使ったリボンやブローチなどを作製し、日系イベントのブースで販売。収益は今後寄付していく。
 また今年のピクニックではプラスチックごみを減らそうと昼食のプレートや土産袋も紙製を用意。昨年は使い捨てのストローではなく、洗って何度も使える同県人会のロゴが入ったストロー付きタンブラーを作製し、メンバーに配布した。「今後も環境問題を意識した取り組みを県人会の活動を通して続けていきたい」と抱負を語った。

子どもたちも参加した水リレー

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