突然この春、日本の義父が末期がんと診断された。
 食べ物が呑み込めなくなり、喉に問題があるのだろうと医者に行ったところ、喉ではなく、胃と食道をつなぐ噴門と呼ばれる場所で癌が大きくなっていた。
95歳という高齢のためか手術や胃瘻(いろう)の選択肢は無く、とりあえず点滴で命をつなぐことになった。食べ物が入らない以外は何の不自由も感じず、見舞いに行っても談話室で笑顔で応対。逆に見舞いの者をいろいろと気遣い、どちらが病人か分からないほど。だが、そのままでいつまでも生きられないのは分かっていた。
 物が豊かにあり、味の良し悪しや好みなど、食べ物を選り好みすることが普通の今。義父の癌で思い知らされたのは、生命は食べることによって支えられているという基本だった。
 自分自身で言えば、就寝前に体重を量り翌朝また量ると、たいてい2ポンドほど少ない。眠っている間も、生き続けるためにはそれだけのエネルギーが必要とされているのだろう。それでもこれまで、食べることで生かされていることを実感しないままに過ごしていた。
 夫は、美味しい物を口にすると義父にも食べさせたいと言い、もう一度日本酒を酌み交わしたいと願ったが、それらは叶わないこと。
やがて血管が点滴を受け付けなくなり、最後の手段として食道に挿入したステントも数カ月後には役に立たなくなり、義父はこの秋、世を去った。
 義母が脳梗塞を再発したのは、その4週間後のことだ。覚悟していたとはいえ、70年以上連れ添ったパートナーを失ったストレスは大きかったに違いない。幸い命に別条はなかったが、再び失語症となった。と同時に、口に入れた食べ物を呑み込むことも容易ではなくなった。今はただ、今後のリハビリで少しでも改善されることを願うばかりだ。
 食べることは、生きること。しかし、身体のどこかにトラブルがあれば、それもままならない。いま、目の前に食べ物があり、食べられる身体であることに感謝して、箸を持ちたい。
 皆さまのサンクスギビングデーが、喜びに満ちたものとなりますように。【楠瀬明子】

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