パンデミックのおかげで時計が止まってしまった。そんな気がしてならない。曜日の感覚がなくなってきた。
時が停止している中、子供の頃の思い出がよみがえってくる。道で転んで、泣きながら家に帰ると、母が傷口に塗ってくれた「赤い魔法のお薬」のことを思い出す。「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの、飛んでけ」。母のおまじないで、不思議と痛くなくなる。
「赤い魔法のお薬」とは「赤チン」のこと。消毒薬「マーキュロクロム液」の愛称である。「ヨードチンキ」と区別するため、「赤いヨードチンキ」を「赤チン」と呼んでいた。塗った傷口が赤く染まる。塗ってもしみない。乾きやすいのでべとつかない。陽に当てると、青肴(あおざかな)のようにぎらぎらと照り返す。
生傷の絶えない日本中のガキ大将たちは、当時、赤チンが染みついた半ズボンで走りまわっていた。ところが、60年代になって、製造過程で有機水銀化合物が出ることが判明した。ほとんどの製薬会社が「赤チン」の原料の生産を中止。一部の会社は中国から輸入された原料を使って製造を続けた。70年代には、ガーゼ付きばんそうこうや無色透明の消毒薬の登場で売れ行きが激減。
それでも「三栄製薬」(東京・世田谷)は、創業理念や愛用者からの要望もあって令和に入っても孤軍奮闘してきた。
新聞記事によると、創業者の藤森利美会長は10年前、「一時は2万から3万本、問屋に卸していました。今はその十分の一。それでも赤チンは私にとっては子供みたいなもんです」と語っていた。
その「三栄製薬」が、20年クリスマスの日、62年間続けてきた「赤チン」製造を取りやめた。水銀を使った製品の製造を規制する「水銀環境汚染防止法」(水俣条約)が20年12月31日に発効するため、とどめを刺されたのだ。
新聞各紙の昭和世代の記者たちは哀感を込めて「赤チンよ、さようなら」と別れを惜しんだ。平成・令和の皆さんは「それって、なあに」と首を傾げているに違いない。かく言う筆者も米留学時代、「赤チン」から「ネオスポリン」に宗旨替えしてからすでに数十年が経っている。時は確実に流れている。【高濱 賛】