3月のある朝、セットしたコーヒーができる間にと、裏庭に出てみた。光に、空気に、やはり春のにおいが感じられる。裏庭続きで小高くなった場所にある裏隣さんとの間はなだらかな斜面になっていて、そこにはイネ科の雑草が芽吹き、その葉先の一つ一つが露を結び、何百という小さな球がキラキラ輝いていた。上でワンワンと子犬2匹が柵越しに私を見ている。間もなくその家の主婦ジャッキーが顔をのぞかせた。「おはよう、マリ」「おはよう、ジャッキー」「いい日になりそうね。マリ、最近コヨーテが徘徊(はいかい)してるわよ、うちの庭にも入った跡があるのよ。穴を掘って潜り抜けてくるようよ」「まあ、ジャッキー、気を付けるわ。でもどうして分かったの」「ふんがあったのよ」「あら、そうなの。フーン」(これはさすがに通じない)「今日もいい日になるといいわね」「そうね、ところでジャッキー、私は昨日の晩からコーンビーフを煮込んで、いいカンジなの。夫の好物なの」
「それはいいわね、今日はセントパトリックスデーですものね。残念なことに私は塩を気にしてるから作らないの。でも食べたくなったらレストランに行けばいいしね。今日は特別メニューでやってるはずよ」「あら、そうなの。さてと、私はキッチンに戻らなくっちゃ。バーイ」「バーイ」
こんな何でもない朝の、何でもない会話が暮らしを楽しくしてくれる。田舎の囲いのない環境で育った私の本能が喜ぶのだろうか。それと英語圏ではお互いの距離感のあんばいがいいと私は思っているのだが、それはきっと私の語彙(ごい)の少なさに、相手が合わせてくれているだけのことであろう。
このアイルランド料理も初めは脂身の多い肉を買ってしまったり、塩辛すぎたり、野菜がクタクタすぎたりしたが、なんとか「お肉はフラットカットがお勧め」、なんて一人前のことを言えるようになった。今年は子どもたちが来ないのは分かっていながらついつい多めに作ってしまったので、右隣の一人暮らしのケイにライブレッドと一緒に一皿分届けた。ついでに年末にオレンジをたくさんいただいた知り合いにも届けた。
先にも述べたように日系三世の夫は年に一度のコーンビーフキャベジを楽しみにしている。というか子供の頃からの習慣でこの日はこれを食べないと気が済まないようである。彼の母、96歳で亡くなった日系二世の義母はアメリカの行事食も全て作っていた。バックグラウンドに関係なくである。嫁いだ当初、イースターなど「関係ないでしょうに」と少々面倒くさがっていた私だが、自分が子育てをする番になると、夫に習慣がついていたこともあるが、やはり一通りは子供に教えとかなくては、と義母と同じことをしていた。
今思うと、当時の一世、二世は良きアメリカ市民としてアメリカの社会に沿うべく、行事食を食卓に取り入れ、子供たちにも教える努力をしてきたのではないだろうか。
何気ない朝の会話で、たまたまコーンビーフの話ができてよかったわ、なんて単純に気をよくしていた私は、その恩恵を受けていることに今更気が付いてハタとした。やれやれ随分と手間がかる嫁だこと。
また同時に、私の母が冬至に作ってくれた「かぼちゃのいとこ煮」、大好きだったあの甘いアズキに絡まった行事食が思いだされたのは、こちら側の母への慕情であろうか。