人はそれぞれ、考え方や思いに違いがある。特に、言語・文化・生活が違えば異なるのは当然といえそうだが、時々遭遇する「not my business」や「not your business」には、全く入り込む余地を与えない印象を持つのは自分だけだろうか。人と人のつながりを一切絶ってしまうような冷たさを感じる。この感覚の延長上にある何かに時々違和感を持つ。
知人が、ある人のことを「彼はいつも自分を無視する。信頼できない」と言っていたのを思い出す機会が続けてあった。何度か話したことがあったので、全く知らないはずはないのだが、彼はうつむき加減に歩いて、まっすぐお目当ての人のところに向かった。
そういうことが続いても知人のように無視されたとは思わなかった。知名度の高い彼は全部の人に「Hi」や「こんにちは」と声をかければいいのだろうが、それが煩わしいか、何か理由があるだろうと思って気にもしなかった。アメリカ人は誰にでも気軽に声をかける、だから人種が違うと奇異に映るのかもしれない。
一つの行為で人を判断するところに危うさがあるが、行為の裏に何かがあるのでは、込められたものが何かなどと推し量る文化を持っていない人たちには、理解が難しいだろうと思うことがある。付き合わなくていい人との間では、お互い無視しあってもかまわないだろうが、それができない関係の場合が困る。
例えば、親子・兄弟間で、病気や介護など、深刻な問題が発生したときなどは本当に大変になる。肝心なことがうまく運ばない事態さえ生まれる。言葉や生育歴・文化が違っても、何を望んでいるか、何を優先させてあげたらいいのかを推し量る思いやりがあれば、言葉など問題にならない場合もある。
育った環境、文化や言語の違いからくる思いのずれが原因で、気持ちが通じ合わないといくら言葉を駆使しても、理解が難しい。どちらかが、その状況に合わせて「not your business」にするか、ここはそういうところと諦めるか。日本にいた時は、考え方が違っていても、聞こうという気持ちさえあれば、話せばわかるという場合が多かった。それが通用しない社会は厳しい。【大石克子】