先日、九段下にある病院で定期検診を受け、帰り道に近くの「昭和館」へ立ち寄った。九段下交差点の角に建てられた「昭和館」には、戦中・戦後・復興期の人々の生活の数々が展示されている。一度動き始めたら止めようもない戦争という暴風が吹き荒れ、資源に乏しく国力も発展途上にあった日本は第2次世界大戦に巻き込まれていった。戦争が始まればそのしわ寄せは庶民に来る。宝石や貴金属、鍋釜の金属類は供出され、人々の心のよりどころだったお寺の鐘までが溶かされて武器となった。
 庭先や床下に掘ったちっぽけな防空壕、灯火管制の薄明かりの下で囲む貧しい食卓…。数々の展示物が、微かに残っている記憶や、聞かされたり読んだりした本の断片と重なる。戦争末期には米空軍の焦土作戦により日本の諸都市は隈なく爆撃され、その最たるものが広島・長崎への原子爆弾投下だった。各地で大空襲があった中でも3月10日の東京下町の大空襲は甚大な被害を及ぼした。その東京を上回る二つが広島と長崎だった。これらを写真に収め、メルマガで「昭和館」見学のレポートを送った。幾つかのコメントに混じって「この戦争で迷惑をかけた海外各地の死者数は記録がありますか?」というコメントがあり、ハッとした。日本にその種の死者への供養所がないことに気付かされた。
 明治以来、海外への進出を目指し、遅ればせながらの植民地開発に邁進した日本。その過程で現地の人たちへの蔑視や日本人優秀視があったのは事実である。その意識は戦線が南方に拡大し、東南アジアや太平洋諸島に及んだ先々で多くの現地住民の生活を壊し、土地を強制的に収容し物資を強奪した。それらの行為の深い反省なくして戦後は終わってないとも言える。もし戦争を深く反省し、二度と戦争をしないと誓うのであれば、そんな供養所があってもよいのではないか。
 戦後貿易に活路を見出し、通商国家に繁栄の道を見出した日本、世界が平和でないと貿易は続かない。世界の平和維持に貢献するのが日本の国是だとすれば、幸せな国ではなかろうか。そんなことを思った「昭和館」見学であった。(若尾龍彦)

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