開国か鎖国かで揺れた1800年代の日本には、さまざまな事件が起きた。漂流民返還と通商を目的に日本へやって来た米商船モリソン号は、外国船打払令により浦賀沖などで砲撃を受けて引き返した(37年)。捕鯨の補給拠点確保などの必要のあった米国は、艦船4隻を率いるペリーを送り込んで開国を迫った(53年)。かつて私もそれらの年号を覚えたものだ。しかし私が知らなかったのは、そして後に知ったのは、米西北部とのつながりだ。
 漂流日本人返還名目で入港しようとしたモリソン号には、愛知県美浜出身の音吉らが乗っていた。音吉の乗った船が江戸に向け、米や陶器を積んで鳥羽の港を出たのは32年。途中で嵐に遭い船は漂流し、生き残った3人の若者が流れ着いたのは現ワシントン州オリンピック半島の西北端だった。同地のマカ族に捕らわれた音吉らは、英ハドソン湾会社のバンクーバー砦(ワシントン州南部のフォートバンクーバー)に送られ、ロンドンを経てマカオに。聖書の日本語訳などに従事していた。音吉はモリソン号事件後は長く上海で通訳やビジネスで活躍し、シンガポールで没した。
 一方、チヌーク族酋長の娘を母にスコットランド人を父に24年に現オレゴン州アストリアで生まれたラナルド・マクドナルドは、漂着した音吉らのことを伝え聞いて日本に強い関心を持ったという。48年、マクドナルドは捕鯨船に乗り込み、北海道近海で1人ボートに乗り移ると漂着を装い利尻島に上陸。身柄は松前藩の支配下に置かれ、後に長崎に移送された。マクドナルドはそこでオランダ語通訳たちに英語を教え、教え子の1人、森山栄之助は後にペリー来航の際のペリーと林大学頭の通訳という大役を務めた。マクドナルドは他の漂流米国人と共に滞日10カ月で米国に戻ることになったが、日本での経験を長年米国で紹介したという。
 年号だけだった日本史が、故国を目前にしながら上陸できなかった音吉の無念や日本に密入国したマクドナルドの冒険心に思いをはせると、身近なものに思えてくる。今年はマクドナルド生誕200年にあたる。(楠瀬明子)

Leave a comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です