いまだ世界各地で生じ続ける戦争に「ハルノート」を思い出した。その存在を知ったのは、かなり大人になってからだ。昭和50年半ばに学んだ都立高校の教科書には載っていない。こちらで、周囲にいる米国人10人ほどに「ハルノートを知っているか」と聞いてみたが、全員が知らなかった。
 「ハルノート」は、太平洋戦争直前の日米交渉末期、日本側の和平案に対し米国が「日本は中国と仏領インドシナから撤退すべき」などの条件を求め返したもので、解釈は諸説あるが事実上開戦前の最後の通達となった。当時の米国務長官コーデル・ハルから名付けられたが、ハルは約11年間ルーズベルト大統領政権下で国務長官を務め、1945年の国際連合創設への多大なる貢献で「国連の父」と称され、ノーベル平和賞を受賞している人物だ。
 日本側は野村吉三郎駐米日本大使を中心に、交渉は41年3月プライベート(非公式)から始まり、約40回ほど会談。太平洋戦争勃発直前まで戦争回避を目指し日米間で交渉を続けた。
 米国は1904~05年の日露戦争以前から日本の立場を理解し、経済的にも援助し、同戦争を仲裁し、停戦させて、日本の勝利を導いたが、同時にアジア大陸にある欧米植民地へ台頭する日本を警戒し始めていた。
 米の当初の外交政策は欧州で始まっていた戦争に介入しない中立の立場の孤立主義。石油や武器を含め35~40年の対日、対中貿易が最も利益をもたらしていたためだ。だが、アジアでの日本軍の暴走は歯止めが効かず、ドイツ、イタリアと三国同盟を締結し脅威を膨らませた。
 ハルは軍部主導に移る日本の動向を理解し、大統領に助言。41年7月に在米の日本資産凍結、8月に日本向け石油輸出を全面禁止した。米諜報部は日本側の無線暗号電報を解読して10月の時点で真珠湾攻撃計画を察知し、ハルは不信感を募らせたが、日本側は決意済みの真珠湾攻撃を隠す表向きのジェスチャー?で、だまし合い?の駆け引きは難航。結局互いの要望を受け入れ難く和平調停は決裂した。真珠湾攻撃で米の民意も大きく変わり、米国は一気に欧州および日本との戦争に参戦することになった。
 野心を止めるには戦争しかなかったのか? 重大な責任を担った彼らの惜しみない努力は無駄ではない。「ハルノート」までの経緯は学ぶべきである。(長土居政史)

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