来年2026年は、羅府新報に英語欄が誕生してちょうど100年になる。それは1926年2月21日のことだった。日本語新聞として創刊してから23年後に、一躍バイリンガル新聞となったのだ。
 当時は週6日の発行で、まずは週1回、日曜版に4ページを組み込む形でスタートした。当日の記事から、新しい時代を迎えた新聞社の喜びと気概が伝わる。
 「いよいよ本日から第二世の好伴侶として、本紙四頁大の日曜付録の発行を致す事となりました。内容は主として英文欄で、米国出生の第二世、すなわち日系米人に邦語に依らず英語を通じて日本および日本人の事情に通暁せしめんとする計画であります」
 編集は21歳のルイース・ススキが担当した。
 当時、2世たちの将来について多くの親たちが気に掛けるようになっていたが、その辺の事情は「日曜付録は白熱的歓迎を受く」との続報からも伺える。その後31年に、週1回から毎日1ページの紙面展開に拡充された。
 そんな英語欄の編集者が大きな存在感を示した出来事もあった。
 日米関係に暗雲が漂い始めていた41年10月、当時25歳だった英語欄編集者のトーゴ・タナカは駒井豊作社長の計らいで首都ワシントンンに赴き、万一日米間で戦争となっても新聞発行を継続できるよう政府に要請した。しかし、12月7日に開戦。駒井社長やタナカはいち早く逮捕され、日本人スタッフ数人もFBIに拘束されたため、新聞の発行は危ぶまれたに違いない。それに多くの読者が購読を取りやめるという事態も重なった。
 だが、その後釈放されたタナカは仕事に戻り、羅府新報は翌年4月4日に日系人の強制収容で発行停止となるまで、検閲を受けながらも、新聞を発行し続けた。タナカは社説で、米国市民となる道を閉ざされていた日本人スタッフらの動揺と不安に理解を示しながら、「戦争における不正義は必ず払拭される時が来る」と訴えていた。こうした彼の姿勢が、新聞を発行し続けるのに一役買ったことは想像に難くない。
 時代の状況を読み、バイリンガルの難しさを糧として、歴史を刻んできた羅府新報。これからもその挑戦は続いていく。(長島幸和)

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